第三十瓶 清酒の味わい方(外観)

 お堅い文化論が続きましたが、本稿より清酒の試飲法に触れて参ります。既に、テイスティングにおける概念は『ワインを楽しむために』にて、基本と為る人が有する感覚については『ワインの味わい方』と『続・ワインの味わい方』にて述べて御座いますので、宜しければご参考にお役立て下さい。さて今度は清酒という事で、「酒の三絶たる色・香・味を基軸に、どう展開して行こうか知らん」と暫く思いあぐねていたのですが、前稿で引用致しました箴言が示唆を下さりました。即ち「醸造法」「酵母」「酒米」の違いを理解する事で、本当の意味で清酒を飲む事が出来るという訳です。日本ソムリエ協会のSAKE DIPLOMA呼称資格認定二次試験でも「特定名称」「酒母」「酒造好適米」を問われ、以前テイスティングコンテストでは「酵母」を答えさせる問いもありました。とは言え、上記記事内の文面を繰り返しますが、「純米だからお米香」とか「山廃だから乳製品香」では感じ取っているのではなく頭から決め付けている訳で、それは造り手に対しても、清酒に対しても失礼と思うのです。先ずは感じた事を感じた儘に表現する事。そして最終的には、どうしたら最高に美味しく飲んであげられるのかを考える、清酒が放つメッセージを唎き取る、という事が飲み手としての正しい姿勢と考えます。「この酒は一体何を訴えているのだろう?」というニュートラルな心持ちでテイスティングをして頂きたいと思う次第です。加えて、数年前の私の様に「日本酒なんてどれも同じでしょ?」とお思いのワイン愛好家の方々に言上ごんじょう致します。ワインは唯単にワインではなく、多くの銘柄や種類がある事を既に私達は知っています。それと同じく清酒にも多くの銘柄や種類があるという事を此処で強調して置かなければなりません。葡萄品種が多彩であるように、米品種も多彩である事を言って置かねばなりません。私達は、各ワイナリーには独自の哲学があるように、各酒蔵には独自の哲学がある事を伝えねばなりません。そして一級ワインが葡萄の粋を表現した芸術品であるように、特撰酒は米の粋を表現した芸術品である事を講じねばならないのです。(※1)

 ※1 実際シャンパーニュに追随して 瓶内二次発酵 を経た酒を、キャプシュル にラベル、ミュズレにキノコ型コルクといったシャンパーニュ仕様の瓶に詰めたり、熟成ワインに負けじと熟成酒を造ったり、清酒酵母でなくワイン酵母(⇒)で醸したり、更には MLF を取り入れた酒も在ったりと、ワインから着想を得た酒も少なくありません。有名な所では、世界で唯一日本酒とワインを共にドメーヌ(※2)として手掛ける愛知県名古屋市の酒蔵萬乗ばんじょう醸造があり、「違う分野の知識、経験とのミックスが新しい考え方を生み出す」という理念の下、九平治KUHEIJIブランドを運営されております(フランスの米どころカマルグで清酒造りに邁進中)。序でに、ドン・ペリニョン五代目醸造最高責任者リシャール・ジョフロワ氏はその アサンブラージュ 技術を駆使してプレステージ酒を発表しています(→https://iwa-sake.jp/

 ※2 殆どの蔵元では原料の米作りは農家任せの、農協から仕入れるネゴシアン。戦前迄は地方の造り酒屋では原料米は酒造場に近い田地の小作からの上納米の一部で作るのが普通だった。中には鑑評会の入賞を目指して岡山の雄町などの酒米を求める所も無くはなかったが、通常は自家所有田地の米で作っていた。しかし戦後になって地主酒屋が農地解放を余儀無くされ、所有していた田地を手放さねばならなくなった。そうして酒米ももはや小作米に頼れず、酒屋を続ける為には他の生産地から購入せねばならなくなり、こうして「自耕自醸」という概念が失われた(一方、地元米を無選択に使用するレベルからすれば、酒造好適米を仕入れる事により酒の質が向上したという面もあった)。それが今尚引き続き、「酒蔵の仕事は酒造り、米作りは農家の仕事」というのが常識と為った清酒の世界において自家栽培する蔵元は大変少ない。そして栽培から醸造、瓶詰めまで一貫して行うドメーヌ(「所有地」の意)の草分けが大阪府の秋鹿酒蔵。この背景には1995年の食糧管理法の廃止があり、それまで稲作農家は農協に供出する販売ルートしか持たなかった。しかし米の相対取引が合法化された現在でも尚「酒米はその産地から買うもの」という概念が主流であるが、トレーサビリティも重要視されて来ている近年では、良い米を毎年確実に一定量得る為に、何処の米か分からない農協に頼らず契約農家による栽培を選ぶ酒蔵も増え、今後は原料米も自分達の土地で作り、蔵自体で管理が出来るように為る事から、更に品質の向上が望めるドメーヌ化も徐々に増えて行くのではないだろうか(そしてその向上心から必然的に無農薬や減農薬、有機農業への視点が生まれて行く)。2016年に他界されたシャトー・マルゴー支配人ポール・ポンタリエ氏は生前この様に語った。「契約栽培の限界を認識する必要がある。栽培するのは、契約農家の人間が良いのか、良い葡萄がどのようなものか知っている人間が良いのか。答えは明白だろう。自社畑で納得の行く葡萄を適熟期に収穫するべきである。それ無しに更なる品質向上を目指すのは不可能ではないだろうか」

 というように力強く申し上げたものの、濁り酒(白色/桃色)や発泡清酒、熟成古酒といった今だ特殊な酒に分類されている物を除けば、確かに外観はどれも無色透明に近く同じ様に見える事は否めません。これは「水の如き清涼感(※3)」が上質な酒の条件の一つとされている事に由来します。元々搾ったばかりの酒は緑や黄色を帯びているのですが、その色は米の 旨味 を生むアミノ酸から来るもので、それが多いと雑味と為るため 濾過 をして、その為に香味と共に色も取り除かれるという訳なのです。また清酒は褐色化メイラード反応が進み易い為、視覚を通じて消費者に与える色感がそのまま商品価値に繋がるという点があり(外観が有する酒質評価への影響は約20~30%という)、詰まり黄色に着色した酒は売れ残って熱劣化あるいは紫外線劣化により変質してしまった物と消費者に思われてしまう事から、この「透明化」が広まりました。そしてこの色合いや濁りを肉眼でより厳密に確認する為に、唎き酒用の器「唎猪口ききちょこ」が使用されるのです。

 ※3 「 の如くさわりなく」が良い酒の条件で、上物のワイン、ブランデー、ウイスキーも障りがない。詰まり様々な成分のバランスが取れ、舌にも鼻にも素直であるという事。また飲料は飲み込む時に力が働くが、上級酒は流れるように喉の奥に吸い込まれて行く感覚を覚える。渋くも辛くもなく、味が割れていない、調和の取れた酒を「すべりのある」酒と言うが、上手に醸した酒には「さわりがない」。坂口謹一郎博士の「水のごとくさわりなく飲めるもの」という表現についてご本人は、「太陽の光は七色ある。それが渾然として無色となっているではないか、これが極意だ」と述べ、「さわりなく 水の如き喉ごし 太陽の光が 七色の光を集めて なお無色であるが如し」と歌われた

青と白の蛇の目模様の効果は、黄の反対色である青によって白の部分に黄色がより鮮明に見え、色調の濃淡が確認し易い事。一方青の部分からは白濁の状態が見易く、清澄度が確認出来る。また液面と空間が狭いため香り立ちは穏やかに為り、普通酒や本醸造酒、純米酒などの燗酒に向く

 しかし近年では全国新酒鑑評会(※4)の審査カードにも「色(色沢)」の項目が無いそうで、無色透明に近いほど高評価を得られるという事も無くなったようであります(※5)。J.S.A.SAKE DIPLOMAの試験では、清澄度と濃淡に加え、宝石等に喩えるワインの様に「クリスタル/ゴールド/シルバー/グリーン/イエロー/トパーズ/オレンジ/ブラウン」の中から選んで解答する事になっています。因みに、伝統的な表現に「冴え」という、美しく澄み切った光沢を指す言葉が有り、特にほのかに緑がかったものを「青冴え」と言ったりするそうです(新酒は青冴えだが、古酒に為ると赤みが増して来る)。又「照り」という、山吹色のつやを表す言葉もあります(人の素肌と同じ様に、同じ色でも艶の有無で大きく変わります)。一方これらとは逆に「ぼけ」という、混濁が見られるネガティヴな表現もあるそうです(※6)。既に「超高齢社会」に突入したこの国では、高齢者数の増加に比例して認知症患者も増加しています。是非とも脳内混濁のボケ防止も兼ねて、感覚を澄まして言語化しながら旨酒に恍惚・・と為って頂きたいものであります。

 ※4 政府が後援して全国規模で催される唎き酒会の存在は日本のみで、明治44(1911)年の第一回から百年以上の歴史を持つ。フランスやイタリアでさえこの様な鑑評会は無い。これは専門家の評価からの技術向上が主目的である為、金賞を取る酒の輪郭が決まっていて、それにきちんと沿った物が賞賛を受ける。個性の闘いではないからこそ、蔵人の技術力の高さを測る事が出来る。フィギュアスケートに喩えると、規定種目において細部まで完璧に制御し、且つそれを審判達の前で如何に巧みに見せられるかという能力の様である(一般客は目にも留まらぬ速さや驚くべき技が披露されるフリーの演技の方を好む)。但し新酒ゆえ春に行われる事から、春に飲み頃に為る酒、即ち熟成を必要とせず、口に含んだ時に分かり易い華やかな香りの酒が有利と為る嫌いがある(春先の上っ面の味の良さに主眼を置くためしっかりとした造りをせず、香り酵母を使い手抜きの醸造が出来る)。因みに、出品酒を別名「喧嘩酒」と言ったりするのだが、無名の蔵でも金賞を取れば一躍注目を浴びるし、大手の蔵で賞から漏れれば面目を失う。故に各蔵では精魂込めて大吟醸酒を仕込む為、この季節杜氏は「胃が痛い」のだとか。なお学校教育と同じでワインは加点法、清酒は減点法で評価される為、「何処が悪い」「此処が足りない」と点を引かれ、清酒の世界では満点の酒は中々無い(実際、独立行政法人酒類総合研究所が作成した清酒のフレーヴァーホイール〈→https://direct.hpc-j.co.jp/page/seishu〉は好ましくない表現が多い。一方、ワインはプラス評価の表現が多い。粗を探して人や物を評価する遣り方は、欠陥の無い同一製品が求められた高度経済成長期には良かったかも知れないが、今の国際化時代において評価されるのは創造性や独自性、即ち テロワール の概念である。100点から始まる減点法から0点から始まる加点法に移行して行かなければ、清酒の世界、延いては日本という国に新時代は遣って来ないであろう(※7)。実際、秋田県新政酒造八代目蔵元佐藤祐輔氏の破天荒が業界の注目を浴びている事を想起されたい。因みにご本人は次の様に仰る。「やはり我々が先人の力で純米吟醸で食えているので、何か後生の為にもですね、新しい種を残すべきだろうと思って色々やっているんですが、それを傍から見ると、とっ散らかったもののように見えるんです」)

(参考)全国清酒品評会(1907~1938)では優劣を決めるのが主目的で、その初期は、酒は燗で飲むものだからとして、最終審査に残った物のみは燗を付けて比べられた。しかしこの良法も第五回以降は行われなくなってしまったという

 ※5 「透明感のある」可能性 ①精米度の高さ(米は芯の方が色が薄い、50%では色有り〈品の良い黄金色〉) ②活性炭 濾過

対し 「黄緑がかった」可能性 ①精米度の低さ ②濾過を余りしていない(「澱がらみ」なる無濾過の特長は微炭酸、パイナップル香、複雑で量感のある味) ③数年経過、熟成(土、茸、スパイス香)

 ※6 精白と糀の力のバランスの欠如から生じる蛋白分解力不足を「蛋白混濁」又は「白ボケ」といい、詰まり酵素蛋白の熱変性により発生し、昭和三十年代に問題に為った。「囲桶で早々に濁る。綺麗な酒でも瓶詰めして温度が冷めると白くボケる」とは、昭和初期から酒造に従事された丹波杜氏の小島喜逸氏のいい

 ※7 減点法に毒された日本人は人を褒める事が苦手で、常に人の粗探しをする傾向にある。そしてその煩わしい他人の視線によって日本人は個性を発揮出来ず、縮こまった生活を強要されるのである。生徒を減点する事が仕事の筆者にはもう無理だが、先ずはその人の好い所を見るようにすれば、少しはこの世界も好く見えるのではなかろうか

 (参考)精米歩合の高さと酒の美味しさは別。米を削って行くと米本来の性質が少なく為って行くため綺麗な淡麗辛口だけで、どの地域、どの蔵元で造っても味が似て無個性に為る。吟醸酒信仰の起源は全国新酒鑑評会にある。俗に唎き酒は「舌先一寸でみる」と言い、酒を飲み込む事は無く直ぐに吐き出す為、舌の奥で感じる苦味や嚥下えんげした時の感触を捉え切れず、また一日に数百点も唎く為、どうしても味の奥深さや含み香の涼しさよりも上立香の華やかな酒の方に点を与えてしまいがちになる(※8)。これに加え、元々米を良く磨いた酒は極一部の関係者しか飲めない物だったが、その存在が一部の愛好家に知られグルメブームで火が付いた。こういった背景から各蔵元は鑑評会で結果だけを求めるように為り、金賞を取る事に躍起と為った。即ち酒の個性が画一化され、非常に似通った物が多く為った(※9)。こうした 吟醸 香や活性炭素による脱色における極端を奨励した恨みは確かにあるが、それでも鑑評会が齎した酒造における技術と素質の向上の功績は大きい。加えて、江戸時代以来の本場である灘・伏見の名声に圧せられて世に知られなかった地方の酒が続々と掘り出された事も見逃せない

 ※8 この膨大な量の試飲に対し、「これでは酒の良し悪しよりもテイスターの感覚の良し悪しを測るようなものだ」という手厳しい批評も御座います。確かに未熟者の私なんぞはほんの十種類程度でも舌がピリピリ痺れ、二十種に至ればバカに為るのみならず、神経も疲弊して正しい評価が下せません

 ※9 俗に言う「YK35」の台頭(Y:山田錦、K:熊本酵母、35:精米歩合35%)。とは言え、矢張り金賞蔵は普通酒も良い。弁慶の蔵元の山本長利氏曰く、「一般酒をわるくつくって、吟醸酒だけをよくするなんて、そんなことはできませんわ。杜氏さんの腕として。そりゃ技術ですからね。そんな器用なことはできません。」但しこれは、普通酒を桶買い(→生一本)したり、コンピューター制御で造ったりする大手には当て嵌まらない所もある

本日の箴言

 競争の世の中、コンクールがあるからには負けていられない。自分の力の最も端的な発現の場であるし、ここで磨いた技能が他の酒の品質向上になるからである。

秋山裕一『日本酒』

記念日の一本

窮極の酔心 大吟醸(精米歩合30%、兵庫県産山田錦100%)(日本酒度+3、酸度1.2、アミノ酸度1.0、Alc17%)

 仄かに黄金を帯びた淡いイエロー。青林檎や青竹、またコリアンダーシードや上新粉といった、心まで澄み渡るような鮮烈で爽やかな高い香り立ちと共に、メロン、桃、マンゴスチン、そして金木犀の香りが厚みを添える

 中甘口で酸味は低めの、17%のアルコールに支えられたミディアムボディ。余韻は長め。吟醸 の香味を活かす為にも、冷やし過ぎず15℃前後、瓜実型 グラス

 超軟 水 仕込みからか、雲の様に限り無く柔らかいテクスチャー、或いは無疵むきずな球体の水晶の溶液を飲んでいるかのような感覚に恍惚と為る

日本画壇の最高峰、横山大観が「酔心」を愛飲していた事は昔から酒好きの美術家連の話題に為っていた。そして画伯はこの酒が非常に濃厚な為、酔心の主人から「一升に二合迄は水でもお湯を混ぜても味が変わらない」と聞いて薄めて飲んでいた。広島から上京した主人が、戦火で焼ける前の上野不忍の広壮な大観邸を訪問した時、酔心を「少々甘口だが良い酒だ」と言われたのに対して、「それは光栄です。これからはお買いにならないで下さい」と答えて、蔵元から四斗樽や壜詰め直送するように為った。それ以来、酔心本舗へ絵を毎年一作ずつ寄贈したのが溜まりに溜まって酔心芸術館が出来上がった(⇒https://www.kuramotokai.com/kikou/56/treasure
広島県:酒類総合研究所が在る現代清酒のメッカ、柔らかい女酒の芳醇な甘口系。合わせるべき郷土食はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/hiroshima.html

第二十九瓶 清酒の国際化

 本当のところを申しますと、清酒をワイン的視点から捉えようとする試みは別に私独自の発想でも何でもなく、日本ソムリエ協会の手法を拝借したものであります。やや長く為りますが、次にJ.S.A. SAKE DIPLOMA教本からの文面を引用致します。

 日本酒について、従来の解説やコメントをみると、科学的に芳香成分を分析したものから、概念的・抽象的な言葉で短く表現したものなどさまざまで、その表現手法や用語の使用について統一されたものを見つけることはできない。これでは別々の媒体でコメントされている複数の日本酒を比較して香りや味わいなど特徴の違いをイメージすることが非常に困難だといわざるを得ない。一方、当協会が永年手がけてきたワインのテイスティング分野には、ご存知の通り国際的に確立されたテイスティング用語が存在し、それらが各言語に翻訳され世界中の異なる言語の人たちとの感覚の共有が可能になっている。日本酒の輸出が増え、国際的な飲料として認知されている現在、そのテイスティングについても国際的な共通言語で発信する必要性がある。

 これでこの島国の酒をワインの様に「国際的な共通言語」で表現しなければならない理由がお分かり頂けたでしょうか? ・・・どうやらまだ言葉が足りないようですので、もう少しお話を付け加えましょう。今より遡って半世紀ほど前の1977年、アメリカで上院特別委員会による報告書『米国の食事改善目標』、通称『マクガバンレポート』なる食生活の指針が公表されました。詰まり「アメリカ人は喰い過ぎで脂の質も良くない。蛋白質や食塩は摂り過ぎ、砂糖は殊に摂り過ぎである。穀類、野菜、果実の摂取を増やし食習慣を変えない限り肥満人口が増え、多くの国民が癌に為る。結果、国民医療費が嵩み国家は破産する」というような内容で、アメリカ人にとって望ましい食習慣、食事改善目標が、昔の日本の食生活そのものであったのだそうです。即ちそれは、世界保健機関(WHO)による2020年版平均寿命ランキング1位の長寿民族たる、世界で最もアンチ・エイジングに成功している日本人を支えて来た発酵食品(※1)を基礎とする伝統的な和食であります。それが理由で日本食が広くアメリカ中に知られる所と為り、それと共にアメリカのセレブの間で健康的な食事に合い且つ健康的な日本酒が流行し、現在はすっかりと定着しました。実際2018年においても日本酒の輸入量はアメリカが最多、そして香港、中国と続きます。そういった、ニューヨークやロンドンを始め世界の主要都市を中心とした和食ブームや日本酒コンテストの新設、そして雑誌などのメディアも手伝い、日本酒への関心と需要が世界的に高まって行く中、2013年12月に和食がユネスコ無形文化遺産に登録され(※2)、清酒の海外輸出量は更なる上昇傾向にあります。こうして現在日本酒は確実に世界の酒の一員と為りつつあり、話では日本人スタッフがいないレストランでもSAKEリストが無いと時代遅れのような意識を持ち、ペアリングの理解も広まって来ていると聞いています。また上海ではSAKEはファッショナブルな飲料として認識されているそうです。そんな中で本家本元の日本人が、日本酒を楽しみに来日する方々を迎えるに当たり、広く深く且つ分かり易く説明出来ないなどという事があれば、それは正に「恥」以外の何物でもないでしょう。これでこの島国の酒を「国際的な共通言語」で表現しなければならない理由がお分かり頂けたでしょうか?

 ※1 例えば醤油、味噌、納豆、酢、漬け物、塩辛、なれ鮨、鰹節といった物で、糀菌や酵母菌、乳酸菌、納豆菌などが生成する様々な酵素を摂り入れる事で、消化酵素や代謝酵素が体の免疫力を高めてくれるのである。そして上記の食べ物に合わせたい酒は矢張りワインより日本酒でしょう。特に非日本人が非常に苦手とする「鼻水を啜っているかのような」納豆、これを食べながら飲むと悪酔いしないという伝承が日本各地に残っている事をお伝えして置きたい。その理由は、大豆の持つ高蛋白質がアルコールを吸収する上に、これまた多く含むビタミンB2と共に肝臓のアルコール分解能力も高めるからだという。納豆のネバネバと清酒のヌルンとした感じのペアリング、是非お試しあれ(絶対好き嫌いが分かれます…)。因みに、酒蔵見学に当たっては断じて納豆を食べてはなりません。強力な納豆菌が糀菌を打ち負かし、「ヌルリ糀」とか「スベリ糀」とか呼ばれるものに為ってしまいます。

 ※2 その背景にあった事柄や関係者のご尽力、また現在の活動や今後の展望など貴重なお話はコチラで⇒https://youtu.be/sFPKT2Zp2xw(49:04)(41:05以降の箸文化の話題を返盃へんぱいから更に推し進めて接吻論にまで繫げる所にはシビレました)。因みに、日本政府がユネスコに提出した申請書には「①多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重 ②健康的な食生活を支える栄養バランス ③自然の美しさや季節の移ろいの表現 ④正月などの年中行事との密接な関わり」の四つの特徴が記載されていた。そして実際の申請書に書かれた名称は「和食:日本人の伝統的な食文化~正月を例として~」(“WASHOKU; Traditional Dietary Cultures of the Japanese notably for the celebration of New Year”)となっており、即ちユネスコ無形文化遺産に登録されたのは和食の中でも特に正月料理なのである

 日本政府観光局(JNTO)によると、訪日外客数は、コロナ禍前の2018年は3119万人、翌2019年は過去最高の3188万人と二年連続三千万人を超えました。これは取りも直さず異邦人が日本文化と、或いは日本人が異国文化と接触する最低回数を表します。無論その全てが和食、いては日本酒に繋がるものではありませんが、それでも飲食おんじきとは日々欠かせぬ行為ゆえ、異邦人の舌がこの両者に触れる頻度は少なくないと予想されます。実際2019年では全体の約七割が和食を求めて来日したというデータもある程です(※3)。要するに私が言いたいのは、和食は言う迄も無く、もはや清酒は日本人だけの物ではないという事です(※4)。既にワインの明確さとは異なる日本酒の純度が、世界の人々の味覚を魅了しているのです。ナポレオン戦争中シャンパーニュ地方へ侵攻したロシア軍という略奪者が帰国してもなお其処の酒の味を忘れられずに注文したのとは違い、或いは太平洋戦争後に多くのアメリカ兵が日本に駐留し醬油の味を覚えて需要を拡大した時とは違い、清酒は極めて平和的に異国の人々に日本文化の粋を味到せしめているのです。(※5)

 ※3 JNTOの調査によると、アメリカやフランスの人々の主要な訪日目的は、国内でしか手に入らない飲食料品や着物・浴衣、伝統工芸品といった日本文化商品への需要で、アルコールに関しては日本酒は勿論、サッポロビールやニッカウヰスキー等の世界的有名ブランドの商品をお求めになる事が多いという。一方アジア圏の人々は日用品の買い物も来日目的の一部で、アルコールについては中国は地酒を含む日本酒と梅酒、タイとインドネシアは梅酒の購入率が高いとの事

 ※4 アメリカ、台湾、韓国、中国、タイ、ベトナム、ブラジル、ノルウェー、オーストラリア、そしてスペインでも酒造所が誕生しており(上記を含め、私が知る限りでは三十九の国々にて SAKE が醸されている)、特にカリフォルニア州(※6)には日本の大手酒造会社も進出し、清酒生産中心地と為っている(※7)(他にはミネソタ州ミネアポリスやテキサス州、カナダのトロントにも酒蔵が在るという)。なお企業としてアメリカ国内で初めて酒造に着手したのは1908年ハワイの「ホノルル日本酒醸造会社」(1986年に米国宝酒造が買収)で、数々の日本に先立った技術的実績を挙げると、①1908年、世界初の冷房付き石蔵で酒造(日本では1927年の月桂冠が初)②設立初期から醸造に乳酸を使用(これは所謂「速醸酛」で、日本で江田鎌治郎氏が確立したのとほぼ同時期)③1939年、発泡性清酒発売(日本での商品化は戦後と思われる)④1947年、ステンレスタンク導入(当時の日本は琺瑯ホーロータンク)⑤戦後、カリフォルニア米で醸造(同米に適した醸造技術を開発→日本米と外米)⑥1959年、二瓶孝夫氏がきょうかい6号酵母の泡なし株を分離、実用化(日本での実用化は1966年、秋山裕一博士による)。以降701号始め、順次泡なし酵母を分離。余談だが、異文化の食に対して開放的な国の代表はアメリカと日本で、閉鎖的な国の代表はフランスと中国であるという。後者の食文化は重厚で簡単に他を受け付けない傾向にあるのだとか。とは言え、日本人がワインを受け入れるのに、国内への本格的な輸入が始まってから百年を要したが。「何、葡萄酒だって? 我々には清酒が有るのだからそんな物は必要なかろう」という姿勢である。この対立がゆえ最初に日本が受け入れたワインは、清酒とは異なる、薬効を全面に出した甘味果実酒という、一般的な欧米ワインと異なる物であった

 ※5 戦争による食の伝播は、たとえ悲惨な姿を伴っているとは言え、まだ人間かんの接触があったからこそ起こり得た現象で、現代のボタン一つでミサイルが飛び交う戦争では食文化の交流など在り得ない

 ※6 カリフォルニアでは箸を持てない人が居ないと言われるほど日本食が一般に浸透している。1980年代に流行したCalifornia cuisine以降、健康志向の彼等の食生活はライトに為って来た。このカリフォルニア・キュイジーヌとは、温暖で冬が短い気候の恵みを受けた、地元産の野菜・果物・魚介類を多人種の料理法で活かした融合食で、もはやライフスタイルの一つとして全国的なトレンドに為っている。その原動力は、東部の古い体制派のみならず、古いヨーロッパに今だ支配されている料理文化に対し、自分達独自の文化を創造しようとする意識であるという(この意識の強さは、英国との文化的相違を求めて米国人が英語の綴りを変えた事からも窺い知れる)。日本人よ、守るべき固有文化が有るという有り難さを知れ

 ※7 アメリカには兵庫灘より大関、白鶴、菊正宗、辰馬本家(白鹿)、日本盛、小西酒造(白雪)、姫路からヤエガキ酒造が、また京都伏見からは月桂冠、黄桜、宝酒造(松竹梅)といった大手メーカーの工場と共に、30社程の地元企業が在り、アメリカ国内生産量は日本からの輸入量よりも多いのだが(輸入酒のシェアは米国市場全体の15%程度)、それは日本の酒造メーカーが現地製造酒とは価格面で対抗出来ず、高級市場に焦点を当てるしかないからである。海外で消費される大半(八割程度というデータも)の清酒は日本産ではないという実態には一考を煩わす価値があろう(無論それらは「日本酒」と呼称する事は許されない)。因みにアメリカではアルコール添加の有無によって課税率が異なる為、市場ではアル添無しの純米酒が好まれている(純米酒は酒税法上ビールに分類され750mL当たり0.02ドルの税率だが、醸造用アルコールを添加した場合は蒸留酒に区分され2.14ドルに為るという)

本日の箴言

 日本酒を・・・文化的に楽しむためには、醸造法の違い、酵母の違いや酒米の違いによる香りや味わいの違いを、言葉で共有することが必要です。

田崎真也『No.1ソムリエが語る、新しい日本酒の味わい方』

〈同氏のお勧め動画⇒お役立ちワイン映像集

休日の一本

志田泉しだいずみ、純米酒(精米歩合60%、兵庫県産米100%)、Alc15~16%、日本酒度+4.0、酸度1.25、静岡酵母NEWー5

 やや濃いめのイエロー。香り立ちは低いが、静岡酵母(果実感と綺麗さ、非常に華やかな 吟醸 香が特徴)と精米歩合が純米吟醸酒レベルの為か、純米酒にしては澄みやかで綺麗な果実香(バナナ、林檎、苺、葡萄)、またマシュマロや岩清水、そしてほんのりとした水仙の香りが上品さを添える

 優しい第一印象、水々しい夕張メロン様の甘味を中盤から酸が追い掛け、後半から腰のある苦味が深みと切れを齎す。吟醸 香と共に、限り無い透明感が有りながら 押し味 も備える素晴らしい個性を殺さない為にも瓢箪型 グラス で

・20℃:甘味が透明度を増し、吟醸酒的に為りより良い

・40℃:甘味と苦味が重みを増し、渋み と共により強いゴク味を生む。最良の温度帯

「人間の五感の練磨で、微生物が一番良い酒を作る生育条件を整えることが最大のテーマ」とする蔵元。全て箱麹法、醪日数も長めに取るなど心掛けているという
静岡県:新鮮な魚介類が入手し易いため淡麗系、奇麗で丸い酒質(滑らかなテクスチャー、軽快な酸味と上品な甘味)。合わせるべき郷土食はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/shizuoka.html

第二十八瓶 日本酒のいわ

 誠に有り難い事に、私のワインをまだ飲み足りないというお声コメントが聞かれました為、いやはや、皆様の肝臓の具合を心より心配しつつ(※1)、これより新酒をかもしてみる事と致します。どんな香味に為りますかは、神のみぞ知るというところです。しかし酒造には原料が必要です。原料を得るには肥料も必要です。ニーチェは『善悪の彼岸』にて次の様な事を言っています。「作者は結局その作品の予備条件であるに過ぎない。母胎であり、土壌であり、場合によっては、その上に、又その中から作品が成長する糞土や肥料であるに過ぎない」。要するに私はこのブログサイトにとってのウンチという訳です💩 おお神々よ、私という耐え難い悪臭を放つ排泄物から、心までとろかすような御神酒おみきが醸されん事を!

 ※1 日本酒はワインよりも平均アルコール度数が数パーセント高い為、より熱く、より重く感じられ、体への負担も大きく為ると思われますが、当方も 吟醸 造りの様に精根籠めて醸造致します故、コロナウィルス飛沫感染防止の観点からも、吐器に吐き出す真似はされず「飲み込んで」頂けますと、当方の行為も報われるものと存じます。この「ぺっ」とするとても上品とは言えない勿体無き行為は、造り手に対する無礼であるのみならず、酒神に対する冒瀆ぼうとくであると当方は信じております。とは言え、矢張り良い酒は美味しくて吐き出せずに飲み込んでしまうものですがネ

 先ず初めに自分の為にも確認して置かなければなりません事は、このサイト名は「ワイン楽会」であるという事です(※2)。にもかかわらずこの場に日本酒についての記事を載せるからには、少なからずワイン愛好者の関心を引き付け続ける技量が必要となりましょう。そして更には、彼等を日本酒愛好者へと改宗せしめる事が達せられたなら、私の文章には「言霊ことだま」が宿っていたという事が証明されるのでしょう。──今のところ私の言葉は人様の顰蹙ひんしゅく然程は・・・買っていないようですので、勢い付いてやや大胆な目論見もくろみを吐露してしまいました。しかしながらオルペウスの様に八つ裂きにされる程世間から愛されれば、詩人として本懐を遂げたと言えるのではないでしょうか。

 ※2 グーグル翻訳の “WINE ORCHESTRA” も大変私の気に入っています。が、残念ながらこの英訳は管理者が元来意図する「楽しみ」から外れており、今だ翻訳機能が字面じづらを追ったものに過ぎず、完全でない事を証明します。とは言え、この「バベルの呪い」が解ける事は決してありますまい

chongsoonkim.blogspot.comより一部抜粋

 さて、日本酒を語るには日本文化も合わせて語らねばなりません。何故なら、もし日本酒が日本と結び付いていなければ、もし日本の歴史や伝統、いては日本の人々と切り離された物であったなら、それは唯の美味な液体に過ぎず、我々の興味は半減してしまいましょう(※3)。ご存知の通り日本酒とは嗜好品で、そして嗜好品という物は矜持きょうじを持って、その背後に在る文化に投資するものだと思います。ただ酩酊だけを求めるのならホワイトリカーなる甲類焼酎をがぶ飲みすれば良いだけです。何とも誇らしい事に、我が国の江戸期において飲酒の能力は、高貴な人間感情を経験する能力と同じに捉えられていたとも聞きます。酒の鑑賞能力は教養の深さを表し、それは人生における崇高な楽しみの一つであるという事です。そして嗜好品である事はワインも同じです。ワインは非常に文化性が高く地域性を払拭出来ないものとされますが、それは原産地から離れられない生鮮な原料の質が味の質に大きく影響し、同時に大量生産が困難だからです。しかし原料を輸送し、工場による大量生産が可能なビールは文明化に成功しました。それはローカル性、言わば個性を払拭し、画一化したという事です。本来、酒に標準スタンダードは無く、在るのはその土地に根付く地域性、多様性即ち個性のみであります。優劣無き平等の価値を持つ郷土性、それが文化というものです。しかしながら、各文化の持つ独自性とは他文化と比較する事でしか見出せないのもまた事実。だからこそ日本人が唯単に「酒」と呼ぶ、米を醸して造られ、人々に天にも昇る心地をもたらす清らかな液体は、現在態々わざわざ「日本酒」と呼ばれているのです(※4)。では「日本酒」という呼び名が生まれたのは何時いつかと申しますと、それは江戸の終わりから明治の初め頃、日本が開国して貿易が始まり、日本の酒が輸出され国外に知られるように為ってからであります(※5)。詰まり、日本製醸造酒と洋酒を区別する為、欧米人が国内外に伝える時にこの名が起きたという訳です。その後日本は、欧米の列強からの遅れを取り戻そうとする近代国家確立への焦燥から「文明開化」と称し、「お雇い外国人(※6)」として海外から各方面の専門家達を国内に手当たり次第招じ入れ、そしてその中には醸造学者も含まれていて、それまで杜氏の経験則と感覚、加えて勘(※7)と遊び心から造られていた「酒」は科学的に合理化された(糞真面目な?)「日本酒」として見直され、現在まで引き続き折衷せっちゅうされて来たのであります。であってみれば、ワインと比較しながら「清酒」を試飲する事も、決して甲斐無く終わる試みではないでしょう(※8)。抑々そもそも、十七条の憲法「一に曰く、和を以て貴しと為し」争いを避ける日本人には全て一如いちにょにしてしまう考え方が有り、「生も死も一つの如し」「男女も一如」「動植物、神仏、剣禅も全て一如」とするのでありますから、日本人の両親から日本で生まれ日本で育てられた私が「ワインも清酒も一如」と考えても一向不思議ではないのであります。

 ※3 例えば、世界中の人々にとって、日本語表記のラベルは本物らしさを感じさせる物であり、日本らしいラベルで在るべきという意見が多数を占める。これは表面的な見方に過ぎないとしても、私達がフランスワインのラベルが英語表記のみであるのを見る時に不自然さと浅薄な商業主義を感じる如く、その国の物は先ずその国の言葉で表現する姿勢を見せる事が誠実さというものであろう

 ※4 日本人であれば日本の酒を「國酒」、或いは酒税法的に「清酒」又は伝統的に「酒」と呼ぶべきであり、殊更に「日本・・酒」と呼ぶ必要は無い(醸造的には「澄み酒」ですが、それは行き過ぎか知らん)。それはまるで我が国の歴史を「国史」でなく「日本史」と余所人よそびとにでも向けて言うかの如き客観振りである。古い歴史はそれを有する者にとって犯し難い誇りと憧れの対象である。フランス人のワインに対する姿勢を見てもそれは一目瞭然。ロシア人にとってのウォッカ、ドイツ人にとってのビール、スコットランド人にとってのスコッチウイスキーしかりである。伝統とはその国固有のものであり、且つ真に意義あるもの、価値あるものと見做みなされたもののみが生き残ったものであってみれば、それを固守し、万一消滅の危機に瀕すれば死守する態度を取るのは至極当然である。自国の酒を卑しめ他国の酒をのみ尊ぶ、そんな国が世界の何処にあろうか。私達は酒と同じく口に入る食料品においては「国産」という語を使い且つ有り難みを持ち、「外国産」よりも大きな信頼を持って頂いているではないか。「今晩はご飯にしよう」と言い、「日本食にしよう」と言わないではないか。海外では “SAKE” と呼ばれている事を認知せよ。(したがって以後このサイトでは、現在でもラベル表示に使われ、他の酒類と区別出来る「清酒」を基本的に使用し、他国の酒と対比する意味合いにおいてのみ「日本酒」という語を当てる。そしてこの概念の許、諸外国で製造されている SAKE による日本酒の無国籍化を阻止する為にも、2015年12月に地理的表示として「日本酒」が指定されたのである)(※9)

 ※5 「日本酒」という語の初出は、1877(明治十)年、石田為武筆録『英国ドクトル・ドレッセル同行報告書』とされる

 ※6 例えばフランスからは法律家、オランダからは建築家、ドイツからは技師、そしてアメリカからは軍学者が雇われた

 ※7 例えば、糀造りは香りと甘味、生酛 造りの乳酸菌の作用は糊味のりあじと酸味と 渋み、酵母の働きは泡と辛み、大桶の発酵状態は泡と香りと味の変わり具合、といったように吟味して作業を調節し進行して行った

 ※8 此処では既に確立されたワインのアプローチ法を通して、今だ発展途上の清酒を捉えようとする訳ですから、曾て日本酒の楽しみが世界的に一部の人達のもので、アジアやインド製の米の酒と引っくるめて扱われていた頃の “rice wine” という呼び名を当サイトの惹句じゃっくに使用する事に私は少しの躊躇ためらいも持ちません。むしろワインの第1 アロマ の様に果実や花から成る吟醸香(ワインで言えば第2アロマに分類されますが)を考慮してみれば、たとえ醸造酒繫がりで与えられた名だとしても、結果的にこの名称は誠に言い得て妙だったと感心さえする次第であります(因みに穀物酒繫がりからか、或いは副原料として香味を調整する目的で米を使用する事が出来るからか、“rice beer” などとも呼ばれたそうだが、麦芽100%ビールが持て囃されている現状〈別に米を使用したからと言って原価や質が劣る訳では決してなく、寧ろプレミアム品にも米は使用されている〉、発泡清酒ならまだしも、この語を当てるのは大衆にとっては難解であろう。しかし最近では酒米から醸した地ビールも製品化されて来ている為、それらは “rice beer” と呼んで良いでありましょう)

〈追記〉その後様々な文献を当たって見ると、どうやらこの呼称は曾ての日蘭交流を経てオランダ人が吹聴したものと思われます。(「私は酒と醤油についてこの機会に一言説明しよう。前者は米で醸造したビールであるが、蒸留していない」──ドゥーフ『日本回想録』〈1833年〉、「これは度の強い米のビールで、フーゼル油の含まれているような味がし、匂いといい外見といい、むしろ火酒〈Branntwein〉と名づけたいくらいのものである。しかしその製造法を知っているオランダ人は、これは一種のビールであるといっている」──『オイレンブルク日本遠征記』〈プロシア人、1860年来日〉)

 ※9 コスト最優先の思想により、海外で生産された SAKE が大量輸入され、国産清酒と調合されて超低価格酒として市場に出回ってもいる。安定して見える世界の安定して見える価値を破壊する偽物から本物を守らなければならない

en.sake-times.comより一部抜粋

本日の箴言

 「文化」の中核は地域の自然条件に対する人間の対し方にある。「文明」の中核は人間の作り出した一般性のある、思考と技術にある。だから「文化」はよその地域への持ち運びは不可能だが、「文明」は運び出され、運び込まれる。

国語学者 大野晋

平日の一本

ふなぐち菊水一番しぼり、 原酒、本醸造(精米歩合70%、新潟県産米100%)、Alc19% 

 透明感のある淡いシルバーやイエロー。極少量の気泡。ふくよかな香り立ちはバナナ、黄色いメロン、菫、セルフィーユ、ごぼうや大根、丁子、シナモン、チョコレート、き立ての餅、生クリーム、石灰の ミネラル

 やや強いアタック、ふくよかな甘味、優しい酸、穏やかな苦味、円やかで芳醇なバランス、余韻はやや短め

 生の爽やかさと原酒の豊潤さ。バナナ香は控えめで諄くなく、濃醇旨口ながら鮮烈さもあり、大抵の酒売り場で安価に購入出来る為、先ず清酒を気軽に試して貰うには恰好の商品。強炭酸水で十分の一ほど割れば香り立ちも上がり、弱発泡酒として食前酒に良い。瓢箪型 グラス 、冷酒から冷やで気軽に楽しみたい

新潟県:新鮮な魚介類が入手し易いため、雑味が少なく綺麗な味の端麗辛口系(特に五百万石はすっきりとした軽い酒質)。合わせるべき郷土食はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/niigata.html

 ※ 以後当サイトで紹介する清酒のコメントは、温度記載が無い限りワインの世界で言う常温18℃前後(香味の特徴が最も分かり易いとされる)での試飲です(日本酒の常温「冷や」は20~25℃)。又ペアリング料理は記載致しません。それは「五味と五感から知る! ワインと料理のペアリング法」でのCちゃんの「日本酒は味のバランスの完成度が高く、味が球体で凸凹がないから、絶対合わないという組み合わせが少ない分『これこそは!』っていう相性も少ない」という台詞を受けてです。しかし上の画像の様に郷土料理のリンクを貼ります。矢張り郷土同士で合わせる事が本来の「生活に根差した歴史的・伝統的・文化的な頂き方」で、飲食の醍醐味が味わえます。何よりクラシックを再認識するのが当サイトの、いては管理者の存在理由ですので。それはそれとして、緊急事態宣言が発令され不要不急の外出の自粛が要請される中、私が改めて思うのは清酒の持つ素質、即ち懐の深さであります。外食産業が規制され「家飲み」が拡大すると、冷蔵庫の中の在庫が悩みの種と為ります。セラーにワインしかなければ「ポイヤックに合わせる仔羊の肉が無い!」とか「シャブリに合わせるエスカルゴが無い!」とか言って、てんやわんやの大騒ぎを演じる羽目に為りましょうが、その点清酒はどんな料理にも合わせ易い万能型で、冷蔵庫内のどんな余り物にも冷静沈着、臨機応変に対応してくれます。

 ペアリングを考えるのはとても素敵な事です。しかし清酒の場合、それに固執するのは如何なものかと思います。ワインとは違い自己主張の控えめな日本酒には大抵の料理に馴染める力が有るのですから、どうして態々わざわざその度量の広さを狭める必要がありましょう? 極端な話、一汁一菜だけでも良い造りの純米酒さえ付けば私は七日間喜んで耐えて見せます(冷や飯だけだと流石に泣くヨ…)。抑々そもそも味噌か漬物、或いは醤油か味噌仕立ての簡単な煮物を肴にぐっと引っ掛けるのが「江戸っ子の酒」であったのです。「極言するならば、江戸では醤油をなめながら酒を飲んだ、といってよい」と、或る学者さんも仰っております。・・・まだ納得行かない? ええ、ならば古典落語『猫の災難』を一齣ひとくさり聞かせて進ぜよう!

「だけどあいつはどうして肴々ってさわぐんだろうね。俺なんざ塩なめたって五合ぐれぇの酒は呑んじゃうよ」

 ──こうなると唯の酒呑みの主張ですかネ…

第二十七瓶 再会のご挨拶

 或る国民は感覚で分かるが、別の国民には一向分からない、その違いこそが本来文化というものである。とは言え、その国の民として生まれて来ても教わらなければ矢張り分からないし身にも付かない。故に、分かる手段の一つとして「教科書」なる物が存在するのである。又「日本文化は日本国民のみが分かっていれば良い、異国民には到底分からぬ」と言うのは、日本の価値観のみで良しとする戦時中の「軍事主義・国粋主義」一辺倒の頃の日本国が威丈高いたけだかに掲げた文句の如きである。この国際化時代、斯かるめしいた思想は酒滓よりも無味乾燥な代物であろう。とは言え神話に見られる人間の起源や原初的な思想に心魅かれる私は、明治の文明開化に諸手もろてを上げて賛同する者ではない。西洋文明を性急に取り入れる余り自国の価値を見失わせた後遺症は今尚深々と残っている。西洋に追い付く事が文化だと誤って思い込んでいる日本人は今だ数知れない。確かにこれも新しい形の日本の文化ではあろう、がこれは日本独自のそれとは全く異質のものである。しかしながら私は、それにより日本の世の中が開けた事を、それが日本の人々の目を少なからず開いた事を認める事にやぶさかではない。そしてこの歴史的事実は、取りも直さず、異文化圏に育った人々にも異国の文化を理解出来るという事を意味する。非日本人にも日本文化を理解出来るという事を意味する。むしろ道徳律を排除する合理主義によってゆがめられた戦後教育を受けて育てられた現代日本人こそ、自国の文化、即ち日本とは何たるかを知らずに、否、知ろうともせずにいるのが、同胞として誠に情けなき現状である。流石にお国の政治家連も斯かる為体ていたらくを見るに見兼ねてか、或いは過去の埋め合わせの積もりか、教育基本法改正案が二〇〇六年に成立、二〇〇七年から施行される事と相為った。其処には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際平和と発展に寄与する態度を養うこと」と記されている。所謂「愛国心」条項である。詰まりこれは、伝統と文化そして愛国心は子供達に教育現場で「教授」して行かねば滅び行く定めに在るという事である。何とも情けなき事ではないか。それから十五年、教育現場に片足を踏み入れる筆者が見るに、その効果は依然として感じられない。抑々教師連に愛国心が感じられない。全く情けなき事ではないか。日本人は日本への愛を叫ぶ事を恥じている。そして自ら日本の歴史と伝統をけがして行く。全く憂国の士と為らざるを得ぬ時代である。好い加減この愚かさに気付いても良さそうなものだが、そろそろこの反動が起こっても良さそうなものだが、一向に人々は自己を犠牲にしない、放棄もしない、しかし保身の術には長けて、名誉を守る矜持きょうじ心に欠けた、ただ無心に「快適さ」と「便利さ」を求める退廃した日常生活を送るのみ。西洋の、己が幸福を人生の最大目標に据える、義務と責任を発現せぬ悪しき方の個人主義が日本人の精神を狂わせ腐敗せしめた。「人生において最初の他人は己の母親」などという言葉は、我儘で、他人を否認し、自我のみを求める、未経験で浅薄な若者の耳には心地良く響く事であろう。恥ずかしいのは常の事だが、実は私もその一人であった。しかし日本人にとってこの言葉はわざわい以上の何物でもなかった。無論私は既に立ち直ったが、こういった考えが、他人への不信、己れへの慢心、いては親や先祖への忘恩、そして神々に対する不敬へと導いた。元来日本人は礼儀が人間を作る事を知るからこそ昔から礼を重んじる民族であって、「無礼も個性」などと言われるように為ればもう終いである。「自らの主体性をむなしゅうする」という日本伝来の知恵が無くなり、はた迷惑なとんがった自我を穏和に抑制する事が出来ず、一種の神経病の如く同一性アイデンティティを振り回す人々を見ない日は無い。しかし哀しい哉、この傾向が、自分の事しか考えていないにもかかわらず、それがかえって自分で自分を認められぬ由々しき事態を引き起こし、他人に認めて貰う事でしか自己存在を確認出来ない、所謂いわゆる「承認欲求」なる病んだ心を生み出した。そしてその思いを一瞬でも満たそうとするのであろうか、せわしなく動く大都市圏の人々を混乱に陥れる「鉄道自殺」をする者も後を絶たない。今、「他人の為に死ぬ事が出来る」「日本の為に死ぬ事が出来る」と言える者がこの国に何人居ようか。何も彼もが計算尽くの、目先の利益に執着する物質主義的な遣り方に染まり、戦時の「一億総玉砕」という恐ろしい程に気高い永久不滅の精神は死に、一秒でも長い寿命をのみ求める不毛な卑しい精神が蔓延はびこった・・・ しかしそんな事は既に一部の有識者達が雄弁に説いている事で、今私が殊更にあげつらう必要も無かろう。第一無名の私が声を荒げて何事か言い立てたとて世間の耳には響かない。結局鼻であしらわれるのみ、叫んだ方が一層孤独に追い込まれるのみ。日本純文学最後の巨頭たる三島由紀夫も死後半世紀足らずで「誰も読まぬ」と同義の「古典」扱いされ、その命懸けの末期の訴えでさえ健康食品や最新機器、資産運用の宣伝文句に搔き消される、今はそんな時代なのだ。これでは僅かにも国家や民族を思う者なら、ワインにおいて テロワール や土着品種を味わう者なら、厭世の情も湧こうというものである。大いに思う者であれば虚無主義ニヒリズムに陥るのもむべなるかな畢竟ひっきょう、過熟した果実が凋落するように、爛熟した文明は堕落する定めにあるのだ。しかし私は、文明の内に宿る文化という種は腐敗せぬものと信じる。それでも尚私は、我々の魂は刀の様に徳で光り輝いているのだと信じる。只それを磨かずにいるが故に錆び付いているだけなのだ。この永らくこびり付いた「身から出た錆」を払拭し、再び心の刀を研ぎ澄ましたその時にこそ、一点の曇り無き鏡の如く澄んだやいばの内に純潔な魂がきらめいて、日のもとあまねく世界が照り渡るのを見るであろう。

toyokeizai.net

 私は、WEB社会による「文化の生温なまぬるい平均化」に警笛を鳴らしながら、「一国の文化全体を毒にも薬にも為らない物にしてしまう」国際化の姿への反省を喚起しつつ、我が「國酒」たる日本酒に題材を求めるこの先の記事が日本人のみならず非日本人に日本文化を知る一つの「参考書」の役割を果たせば、我が意は果たせたものとする者である。書物・映像・試飲会・セミナー・ワイナリー見学・資格・講師などを通し、様々なアプローチからワインについての知識を収集し、感覚し、思考し、それでも尚新しい何かを探し続けた結果、私が辿り着いた所は日本酒であった。人間が探した末に到達するものは「根」なのである。今の日本人は自分達の起源について知る事が余りに少ない。無論それは終戦後GHQにより諸悪の根源として民族・愛国主義を否定され、固有文化を制限された事に因るだろう。日本人の魂の拠り所であるべき古事記は義務教育から外され、絢爛けんらんたる文体を誇る古典文学は唯の受験科目として忌み嫌われ、その豊かな感性を読み取ろうとする者は余りに少ない。自らの系譜・神話・伝説・歌謡を失った民族は滅びる定めにある。それは容易に思い至る真実である。四大古典芸能である能・狂言・歌舞伎・文楽について説明出来る国民がほとんど居ない状況に、果ては建国精神を忘れ、2.11「建国記念の日(※1)」に建国を祝う国民が殆ど居ない状況に、在日異邦人は唯々啞然とするばかりであろう。しかし戦前と相変わらずにいるものが在る。四季折々の行事、冠婚葬祭における神人との交際、衣食住に生きる行儀作法、それら風俗の内には常に酒が瑞々しい音を立てて流れている。この酒精の流れは体内の血流に乗り、五臓六腑に沁み渡り、やがては精神に至り、飲み手にその国の固有思想をじっくり味わわせてくれるものである。「古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができるからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持主である」という坂口謹一郎氏の言葉を我々は肝に銘じて置かねばならない。酒は文化の精髄エッセンスである。ここ五十年弱、日本酒国内消費量は減少の一途を辿っている。清酒という源泉が涸れ果てる時、日本文化に取り返しの付かない喪失が遣って来る。しかし弥生時代の太古より沁み込んでいる田園という日本人の原風景は、日本人の意識からそう容易たやすく消し去られるものではない。青空の下鮮やかに映える深緑しんりょく絨毯じゅうたんの如き稲葉の情景に、大和魂は必ず帰って行くのである。──いつでも帰れる場所があるという安心感。十年前、希臘ギリシアの地に居てふと日の丸の旗がテレヴィジョンに映し出された時の安心感。幾ら西洋思想を並べ立てたところで所詮は西洋気触かぶれ。日本で生まれ育った以上、結局帰る所は日本しかないのだ。そしてその帰る時期は各々おのおの勝手に決めるが好い。重ねて言うが、結局帰る所は日本しかないのだ。無論帰らない選択肢もある。しかし帰ったあかつきには、その者は和魂洋才の徒として、大小問わず何事か成すであろう。日本人の誇りと共に胸を張り、世界を見据えている事であろう。

 ※1 現存する世界最古の国家たる日本、その建国は最も短く見積もっても千八百年前、妥当なところでも二千年以上前であろうと考えられている。次いでデンマークの千数十年、三番目はイギリスの九百数十年前である。なお国連常任理事国の建国年を見ると、アメリカは1776年、フランスは1789年、中国は1949年、ロシアは1991年とイギリスを除き歴史は浅い

 ところで先に国際化の弊害について述べたが、一方で国際化の進展は異文化との遭遇をもたらす。即ち自国の文化の再認識を要求する。同国人同士なら当然の事が、異国人には一から説明しなければならぬ状況が生じる為である。そして説明は冗長であってはならず、簡潔でなければならない。簡潔な説明には深い理解が要る。深い理解には多くの知識と慎重な考察が求められる。正直「稲作文化の生んだ偉大な華」である清酒に関して私はまだまだ学習の足らぬ身であり、J.S.A. SAKE DIPLOMAなる呼称資格も昨年2020年に取得したばかりの、それ迄は葡萄酒を一偏に飲む者であった為、上記の如き知識と考察を経た熟練者の様な巧みに論ずる能力が有るとは到底思えない。しかし日本文化への情熱と自己確立への焦燥が私の心を搔き立てるのである。何より私は常に書く事で理解して来た人間である。そして日本語が私の母国語であり、日本文化を真に表現出来る唯一の言語である(※2)。国外に受け入れられてから初めて国内で受け入れられるという事がこの国に屢々しばしば起こる事もまた事実だが、英語では日本文化の粋を表現し切れぬし、たとえそれが出来たと仮定して、私にはそうする事が出来る程の英語を使いこなす能力も無い。機械の翻訳機能は日々向上しているようだが、矢張りまだ機械には機械の頭しかないため機械的な表現しか出来ず、原文に込められた微妙な意味合い、人情が感じる味わいを自在に表現するには程遠い。結局科学一偏の人間が造り出す限り、言葉の神性、「言霊ことだま」は、人工知能には理解出来まい。しかしこの場は人の魂に訴える文学ではなく日常の記録や情報を公表するブログである。以上の文面は重い苛立ちを籠めた堅いものと相成ったが、次稿からは人が読み易く機械が訳し易い言葉で、しかし或る程度の品と格を文章に持たせながらも勿論楽しい調子を維持し、人に無害どころか有益な奉仕サーヴィス精神を以て書き進める所存である。

 ※2 例えば、KojiSyubo酒母Moromiといった酒造用語は英単語一語では正確に表現出来ない。Syoyu醤油Miso味噌Dashi出汁 も其々 Soy-sauce や Soybean paste、Fish stock と表しても違和感が残る。したがってこうした微妙なニュアンスを持つ言葉は、その概念を英語で理解して貰い、Umami旨味Sushi寿司 の様に、使う場合はそのまま日本語で表現して貰う方が良いのではないのか。我々日本人は外来語を積極的に取り入れて来たが、もはや日本語も積極的に英語に取り入れられても良かろう。国際語たる英語に日本語が組み込まれ、且つその語意が正しく理解される事が、和食を含む全ての日本文化の国際化への道なのではなかろうか