第二十八瓶 日本酒のいわ

 誠に有り難い事に、私のワインをまだ飲み足りないというお声コメントが聞かれました為、いやはや、皆様の肝臓の具合を心より心配しつつ(※1)、これより新酒をかもしてみる事と致します。どんな香味に為りますかは、神のみぞ知るというところです。しかし酒造には原料が必要です。原料を得るには肥料も必要です。ニーチェは『善悪の彼岸』にて次の様な事を言っています。「作者は結局その作品の予備条件であるに過ぎない。母胎であり、土壌であり、場合によっては、その上に、又その中から作品が成長する糞土や肥料であるに過ぎない」。要するに私はこのブログサイトにとってのウンチという訳です💩 おお神々よ、私という耐え難い悪臭を放つ排泄物から、心までとろかすような御神酒おみきが醸されん事を!

 ※1 日本酒はワインよりも平均アルコール度数が数パーセント高い為、より熱く、より重く感じられ、体への負担も大きく為ると思われますが、当方も 吟醸 造りの様に精根籠めて醸造致します故、コロナウィルス飛沫感染防止の観点からも、吐器に吐き出す真似はされず「飲み込んで」頂けますと、当方の行為も報われるものと存じます。この「ぺっ」とするとても上品とは言えない勿体無き行為は、造り手に対する無礼であるのみならず、酒神に対する冒瀆ぼうとくであると当方は信じております。とは言え、矢張り良い酒は美味しくて吐き出せずに飲み込んでしまうものですがネ

 先ず初めに自分の為にも確認して置かなければなりません事は、このサイト名は「ワイン楽会」であるという事です(※2)。にもかかわらずこの場に日本酒についての記事を載せるからには、少なからずワイン愛好者の関心を引き付け続ける技量が必要となりましょう。そして更には、彼等を日本酒愛好者へと改宗せしめる事が達せられたなら、私の文章には「言霊ことだま」が宿っていたという事が証明されるのでしょう。──今のところ私の言葉は人様の顰蹙ひんしゅく然程は・・・買っていないようですので、勢い付いてやや大胆な目論見もくろみを吐露してしまいました。しかしながらオルペウスの様に八つ裂きにされる程世間から愛されれば、詩人として本懐を遂げたと言えるのではないでしょうか。

 ※2 グーグル翻訳の “WINE ORCHESTRA” も大変私の気に入っています。が、残念ながらこの英訳は管理者が元来意図する「楽しみ」から外れており、今だ翻訳機能が字面じづらを追ったものに過ぎず、完全でない事を証明します。とは言え、この「バベルの呪い」が解ける事は決してありますまい

chongsoonkim.blogspot.comより一部抜粋

 さて、日本酒を語るには日本文化も合わせて語らねばなりません。何故なら、もし日本酒が日本と結び付いていなければ、もし日本の歴史や伝統、いては日本の人々と切り離された物であったなら、それは唯の美味な液体に過ぎず、我々の興味は半減してしまいましょう(※3)。ご存知の通り日本酒とは嗜好品で、そして嗜好品という物は矜持きょうじを持って、その背後に在る文化に投資するものだと思います。ただ酩酊だけを求めるのならホワイトリカーなる甲類焼酎をがぶ飲みすれば良いだけです。何とも誇らしい事に、我が国の江戸期において飲酒の能力は、高貴な人間感情を経験する能力と同じに捉えられていたとも聞きます。酒の鑑賞能力は教養の深さを表し、それは人生における崇高な楽しみの一つであるという事です。そして嗜好品である事はワインも同じです。ワインは非常に文化性が高く地域性を払拭出来ないものとされますが、それは原産地から離れられない生鮮な原料の質が味の質に大きく影響し、同時に大量生産が困難だからです。しかし原料を輸送し、工場による大量生産が可能なビールは文明化に成功しました。それはローカル性、言わば個性を払拭し、画一化したという事です。本来、酒に標準スタンダードは無く、在るのはその土地に根付く地域性、多様性即ち個性のみであります。優劣無き平等の価値を持つ郷土性、それが文化というものです。しかしながら、各文化の持つ独自性とは他文化と比較する事でしか見出せないのもまた事実。だからこそ日本人が唯単に「酒」と呼ぶ、米を醸して造られ、人々に天にも昇る心地をもたらす清らかな液体は、現在態々わざわざ「日本酒」と呼ばれているのです(※4)。では「日本酒」という呼び名が生まれたのは何時いつかと申しますと、それは江戸の終わりから明治の初め頃、日本が開国して貿易が始まり、日本の酒が輸出され国外に知られるように為ってからであります(※5)。詰まり、日本製醸造酒と洋酒を区別する為、欧米人が国内外に伝える時にこの名が起きたという訳です。その後日本は、欧米の列強からの遅れを取り戻そうとする近代国家確立への焦燥から「文明開化」と称し、「お雇い外国人(※6)」として海外から各方面の専門家達を国内に手当たり次第招じ入れ、そしてその中には醸造学者も含まれていて、それまで杜氏の経験則と感覚、加えて勘(※7)と遊び心から造られていた「酒」は科学的に合理化された(糞真面目な?)「日本酒」として見直され、現在まで引き続き折衷せっちゅうされて来たのであります。であってみれば、ワインと比較しながら「清酒」を試飲する事も、決して甲斐無く終わる試みではないでしょう(※8)。抑々そもそも、十七条の憲法「一に曰く、和を以て貴しと為し」争いを避ける日本人には全て一如いちにょにしてしまう考え方が有り、「生も死も一つの如し」「男女も一如」「動植物、神仏、剣禅も全て一如」とするのでありますから、日本人の両親から日本で生まれ日本で育てられた私が「ワインも清酒も一如」と考えても一向不思議ではないのであります。

 ※3 例えば、世界中の人々にとって、日本語表記のラベルは本物らしさを感じさせる物であり、日本らしいラベルで在るべきという意見が多数を占める。これは表面的な見方に過ぎないとしても、私達がフランスワインのラベルが英語表記のみであるのを見る時に不自然さと浅薄な商業主義を感じる如く、その国の物は先ずその国の言葉で表現する姿勢を見せる事が誠実さというものであろう

 ※4 日本人であれば日本の酒を「國酒」、或いは酒税法的に「清酒」又は伝統的に「酒」と呼ぶべきであり、殊更に「日本・・酒」と呼ぶ必要は無い(醸造的には「澄み酒」ですが、それは行き過ぎか知らん)。それはまるで我が国の歴史を「国史」でなく「日本史」と余所人よそびとにでも向けて言うかの如き客観振りである。古い歴史はそれを有する者にとって犯し難い誇りと憧れの対象である。フランス人のワインに対する姿勢を見てもそれは一目瞭然。ロシア人にとってのウォッカ、ドイツ人にとってのビール、スコットランド人にとってのスコッチウイスキーしかりである。伝統とはその国固有のものであり、且つ真に意義あるもの、価値あるものと見做みなされたもののみが生き残ったものであってみれば、それを固守し、万一消滅の危機に瀕すれば死守する態度を取るのは至極当然である。自国の酒を卑しめ他国の酒をのみ尊ぶ、そんな国が世界の何処にあろうか。私達は酒と同じく口に入る食料品においては「国産」という語を使い且つ有り難みを持ち、「外国産」よりも大きな信頼を持って頂いているではないか。「今晩はご飯にしよう」と言い、「日本食にしよう」と言わないではないか。海外では “SAKE” と呼ばれている事を認知せよ。(したがって以後このサイトでは、現在でもラベル表示に使われ、他の酒類と区別出来る「清酒」を基本的に使用し、他国の酒と対比する意味合いにおいてのみ「日本酒」という語を当てる。そしてこの概念の許、諸外国で製造されている SAKE による日本酒の無国籍化を阻止する為にも、2015年12月に地理的表示として「日本酒」が指定されたのである)(※9)

 ※5 「日本酒」という語の初出は、1877(明治十)年、石田為武筆録『英国ドクトル・ドレッセル同行報告書』とされる

 ※6 例えばフランスからは法律家、オランダからは建築家、ドイツからは技師、そしてアメリカからは軍学者が雇われた

 ※7 例えば、糀造りは香りと甘味、生酛 造りの乳酸菌の作用は糊味のりあじと酸味と 渋み、酵母の働きは泡と辛み、大桶の発酵状態は泡と香りと味の変わり具合、といったように吟味して作業を調節し進行して行った

 ※8 此処では既に確立されたワインのアプローチ法を通して、今だ発展途上の清酒を捉えようとする訳ですから、曾て日本酒の楽しみが世界的に一部の人達のもので、アジアやインド製の米の酒と引っくるめて扱われていた頃の “rice wine” という呼び名を当サイトの惹句じゃっくに使用する事に私は少しの躊躇ためらいも持ちません。むしろワインの第1 アロマ の様に果実や花から成る吟醸香(ワインで言えば第2アロマに分類されますが)を考慮してみれば、たとえ醸造酒繫がりで与えられた名だとしても、結果的にこの名称は誠に言い得て妙だったと感心さえする次第であります(因みに穀物酒繫がりからか、或いは副原料として香味を調整する目的で米を使用する事が出来るからか、“rice beer” などとも呼ばれたそうだが、麦芽100%ビールが持て囃されている現状〈別に米を使用したからと言って原価や質が劣る訳では決してなく、寧ろプレミアム品にも米は使用されている〉、発泡清酒ならまだしも、この語を当てるのは大衆にとっては難解であろう。しかし最近では酒米から醸した地ビールも製品化されて来ている為、それらは “rice beer” と呼んで良いでありましょう)

〈追記〉その後様々な文献を当たって見ると、どうやらこの呼称は曾ての日蘭交流を経てオランダ人が吹聴したものと思われます。(「私は酒と醤油についてこの機会に一言説明しよう。前者は米で醸造したビールであるが、蒸留していない」──ドゥーフ『日本回想録』〈1833年〉、「これは度の強い米のビールで、フーゼル油の含まれているような味がし、匂いといい外見といい、むしろ火酒〈Branntwein〉と名づけたいくらいのものである。しかしその製造法を知っているオランダ人は、これは一種のビールであるといっている」──『オイレンブルク日本遠征記』〈プロシア人、1860年来日〉)

 ※9 コスト最優先の思想により、海外で生産された SAKE が大量輸入され、国産清酒と調合されて超低価格酒として市場に出回ってもいる。安定して見える世界の安定して見える価値を破壊する偽物から本物を守らなければならない

en.sake-times.comより一部抜粋

本日の箴言

 「文化」の中核は地域の自然条件に対する人間の対し方にある。「文明」の中核は人間の作り出した一般性のある、思考と技術にある。だから「文化」はよその地域への持ち運びは不可能だが、「文明」は運び出され、運び込まれる。

国語学者 大野晋

平日の一本

ふなぐち菊水一番しぼり、 原酒、本醸造(精米歩合70%、新潟県産米100%)、Alc19% 

 透明感のある淡いシルバーやイエロー。極少量の気泡。ふくよかな香り立ちはバナナ、黄色いメロン、菫、セルフィーユ、ごぼうや大根、丁子、シナモン、チョコレート、き立ての餅、生クリーム、石灰の ミネラル

 やや強いアタック、ふくよかな甘味、優しい酸、穏やかな苦味、円やかで芳醇なバランス、余韻はやや短め

 生の爽やかさと原酒の豊潤さ。バナナ香は控えめで諄くなく、濃醇旨口ながら鮮烈さもあり、大抵の酒売り場で安価に購入出来る為、先ず清酒を気軽に試して貰うには恰好の商品。強炭酸水で十分の一ほど割れば香り立ちも上がり、弱発泡酒として食前酒に良い。瓢箪型 グラス 、冷酒から冷やで気軽に楽しみたい

新潟県:新鮮な魚介類が入手し易いため、雑味が少なく綺麗な味の端麗辛口系(特に五百万石はすっきりとした軽い酒質)。合わせるべき郷土食はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/niigata.html

 ※ 以後当サイトで紹介する清酒のコメントは、温度記載が無い限りワインの世界で言う常温18℃前後(香味の特徴が最も分かり易いとされる)での試飲です(日本酒の常温「冷や」は20~25℃)。又ペアリング料理は記載致しません。それは「五味と五感から知る! ワインと料理のペアリング法」でのCちゃんの「日本酒は味のバランスの完成度が高く、味が球体で凸凹がないから、絶対合わないという組み合わせが少ない分『これこそは!』っていう相性も少ない」という台詞を受けてです。しかし上の画像の様に郷土料理のリンクを貼ります。矢張り郷土同士で合わせる事が本来の「生活に根差した歴史的・伝統的・文化的な頂き方」で、飲食の醍醐味が味わえます。何よりクラシックを再認識するのが当サイトの、いては管理者の存在理由ですので。それはそれとして、緊急事態宣言が発令され不要不急の外出の自粛が要請される中、私が改めて思うのは清酒の持つ素質、即ち懐の深さであります。外食産業が規制され「家飲み」が拡大すると、冷蔵庫の中の在庫が悩みの種と為ります。セラーにワインしかなければ「ポイヤックに合わせる仔羊の肉が無い!」とか「シャブリに合わせるエスカルゴが無い!」とか言って、てんやわんやの大騒ぎを演じる羽目に為りましょうが、その点清酒はどんな料理にも合わせ易い万能型で、冷蔵庫内のどんな余り物にも冷静沈着、臨機応変に対応してくれます。

 ペアリングを考えるのはとても素敵な事です。しかし清酒の場合、それに固執するのは如何なものかと思います。ワインとは違い自己主張の控えめな日本酒には大抵の料理に馴染める力が有るのですから、どうして態々わざわざその度量の広さを狭める必要がありましょう? 極端な話、一汁一菜だけでも良い造りの純米酒さえ付けば私は七日間喜んで耐えて見せます(冷や飯だけだと流石に泣くヨ…)。抑々そもそも味噌か漬物、或いは醤油か味噌仕立ての簡単な煮物を肴にぐっと引っ掛けるのが「江戸っ子の酒」であったのです。「極言するならば、江戸では醤油をなめながら酒を飲んだ、といってよい」と、或る学者さんも仰っております。・・・まだ納得行かない? ええ、ならば古典落語『猫の災難』を一齣ひとくさり聞かせて進ぜよう!

「だけどあいつはどうして肴々ってさわぐんだろうね。俺なんざ塩なめたって五合ぐれぇの酒は呑んじゃうよ」

 ──こうなると唯の酒呑みの主張ですかネ…

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