第四十一瓶 ブレンドのたえ

First Witch Round about the cauldron go; In the pison’d entrails throw. Toad, that under cold stone Days and nights has thirty-one Swelter’d venom sleeping got, Boil thou first i’ the charmed pot.「釜のまわりをぐるぐるまわり、腐ったはらわたほうりこめ。それ、ひきがえる、冷たい石に押しつぶされて、三十一日三十一夜、眠りつづけて、毒の汗ながす、お前が最初に魔法の釜に、煮えろ、煮えろ!」

Second Witch Fillet of a fenny snake, In the cauldron boil and bake; Eye of newt and toe of frog, Wool of bat and tongue of dog, Adder’s fork and blind-worm’s sting, Lizard’s leg and owlet’s wing, For a charm of powerful trouble, Like a hell-broth boil and bubble.「おつぎは沼蛇ぬまへびのぶつ切りだ、煮えろ、焼けろ。いもりの眼玉に蛙の指さき、蝙蝠こうもりの羽に犬のべろ、まむしの舌に盲蛇のきば、とかげの脚にふくろうの翼、このまじないで、おそろしいわざわいがき起こる、さあ、地獄の雑炊、ぶつぶつ煮えろ、ぐらぐら煮えろ。」

Third Witch Scale of dragon, tooth of wolf, Witches’ mummy, maw and gulf Of the ravin’d salt-sea shark, Root of hemlock digg’d i’ the dark, Liver of blaspheming Jew, Gall of goat, and slips of yew Silver’d in the moon’s eclipse, Nose of Turk and Tartar’s lips, Finger of birth-strangled babe Ditch-deliver’d by a drab, Make the gruel thick and slab: Add thereto a tiger’s chaudron, For the ingredients of our cauldron.「竜のうろこにおおかみの牙、魔女のミイラに人食いざめ咽喉のどと胃袋、闇夜やみよに掘った毒にんじんの根、イエスを罵ったユダヤ人の肝臓、山羊やぎの肝、月蝕げっしょくの夜に手折たおったいちいの子枝、トルコ人の鼻と韃靼だったん人のくちびる売女ばいたどぶに生み落して、すぐに首を締めた赤ん坊の指、さあ、とろりとろりと煮つめようよ、この雑炊を。それ、も一つおまけに、虎のはらわた、釜の中味に毒の味きかそう。」

 ──とは『マクベス』(福田恒存訳)からの抜粋ですが、これら三人の魔女が毒々しい原料と禍々しい呪文を以て精製した気味悪いちゃんこ鍋が、正にブレンドの奥義と言うものであります。

Macbeth witches by Karl Alexander Wilke (1879 – 1954)

 個人的なお話ですが──前回清酒の健康効果について述べて置いてこう言うのも何ですが──私は合法的にアルコールが飲めるように為ってから、清酒を一合でも飲むと翌日肌が弛みほうれい線が目立つように為る事が多く、どうやら体質的に合っていない事が判明しております。そしてそれが、私が清酒の美味しさを知りながらもワインに没頭した理由の一つでもありました。しかしワインを知った後、日本人である以上「日本酒と正面から向き合わねばならぬ」という事に為って、J.S.A.SAKE DIPLOMA呼称資格試験が切っ掛けと為り、何故か科学的裏付けに反する己が美容への悪影響も顧みず、コロナ対策のマスクを隠れ蓑に、それからは腹を括り死んだ気持ちに為って二年ほど連日のように飲み続けたのであります(※1)。そしてその末に見えたもの、それがブレンドでありました(それと実年齢より十歳老けた鏡の中の自分と、脂肪肝の兆候です(;^ω^)…「こりゃホントにいかん」という事で、直ちにひと月断酒して回復しました┐(´д`)┌ヤレヤレ)。詰まり、「偶に出会する自分好みの酒を如何に懐に響かぬように入手出来るか」という難問ゴルディアスの結び目をアレキサンダー大王の遣り方で一刀両断に解決したもの、それがブレンドであったのです。したがいましてこの稿こそは、数え切れぬ程の酒瓶を飲み干し、国の財源に一個人としては多くはなくとも少なからず貢献した末に、自分自身の好みの味に辿り着いた方々だけに通じる内容であります。此処は、日本という国に敬意も金も払いたくないと思う方々には、永遠に辿り着けない境地なのであります。

 ※1 余談だが、昔は、酒の所為で一代で身上しんしょうを潰し、山も沢山持つ分限者一家を零落させるようなタイプの酒呑みが日本中に居たという。娯楽の無い時代では酒が最大の楽しみであったし、酒量の多さは男を上げる手段でもあった。飲み始めたら最後、何処まで行くか分からぬという際どさが酒呑みにはある。これは生きる事の際どさと繋がっているように思われる

 扨、私が今迄に七面倒なだけで何の収益にも為らない書き物をしたためて来たのは、全く自分好みの作品を他に誰も書いてくれなかったからであります。そして言う迄も無く、そんな物は誰も、自分以外に書ける者は存在しません。それと同様に、全く自分好みの味の酒は矢張り自分で作るしかないのです。が、この国の法律において一般人に酒造は許されておりません(※2)。しかしブレンドの技術を身に付けさえすれば、その究極の目的が、愛飲家の彼岸が達成されるのであります!

 ※2 厳密に言えばアルコール度1%迄なら自家醸造は許されているが、酒飲みにとってその程度の度数に果たして何の意味があろうか。大袈裟に言えば日本始まって以来の主要な国民酒たる濁酒どぶろくは、明治三十二(1899)年から自家製造が全面禁止と為り、この時を以て自家酒造は全て犯罪と為った。しかしこれはどう考えても政府の横暴である。国連常任理事国においても自家醸造は合法である(中国は不明→参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Homebrewing)事も鑑みれば、欧州のワインやビールの季節酒同様、日本の冬の季節酒として国民の手に返すべきではないか。濁酒の復活は、消費者大衆に忘れ去られた悦びを取り戻すと共に、我が国の酒の消費の上に季節的名物を作り出すという点で、或いはウィーンのホイリゲ、ラインのアウスシャンク、フランスのカルヴァドスの様な観光上の世界的名物に為らぬとも限るまい。濁酒の様な旨い酒が在りながら、単なる税金取り立て上の便宜から国民の楽しみを奪うような事は近年の役所の精神ではなかろう。恐らくはそういった思いを抱き、千葉県に自家用酒造即ち濁酒造りの認可を求めて国を相手に裁判闘争した勇者が居る。一審は「酒税法違反」として有罪になった。これは「個人の幸福権追求」と国家収入の基本を揺るがす「税金問題」の争いであり、国は酒害よりも国家への税金に重点を置いているという事を意味した。──因みに濁酒とは、酒を搾って清酒にする工程を省いた醪そのもので、糀や米粒の入った儘の酒ゆえ、その舌触りや歯触りが清酒とは全く異なる、甘酒の様でもあるが、酒と言うよりは一種の食物である。また甘味・酸味・アルコールの辛味も利いた、清酒には見られない美味しさが有る(固体の粒や泡の様な気体の粒でも、表面には液中の微粒成分コロイドが吸着されて集まり、その部分が特に濃くなっている。詰まりビールも液より泡の方が濃い事と為るが、それは科学的分析結果である〈固形分そのものの成分や栄養価にも拠るかも知れないが、実は一々の固形粒子が、その周りに酒の風味成分を吸着する事に拠るようである〉)。抑々清酒と濁酒は同じ酒として比較出来る物ではなく、濁酒は濁酒同士を比べ良否を見るべきである。或る山間の耕地の農家達は、「独特の味は酸によって味の深さを造り、相手をする料理の品によって清酒よりもどぶろくの方が良く合う」「普通の酒より美味なー、どぶろくから、この酸っぱさを無くしたら値打ちが無くなるで」と言って濁酒を愛飲する。坂口謹一郎は「このような甘酸っぱい酒は少ない」とどぶろくも高く評価し、酒税法で禁じられているのを惜しんだ。そこで、清酒は醪を 濾過 せねばならぬが、その為の濾布の目の大きさは規定されていない事に着目し、伏見の或る蔵元に教え、濁るような濾材を使わせて「濁り酒」を造らせた。原酒 の儘ゆえアルコール度が20度位の物もあり後で大酔いする恐れがあったが、駅の売店に行列が出来るほど大人気に為り、その後各地に同様の酒が多く出現した

 では毎度の如く歴史的背景から考察を進めて参りましょう。

 曾ては銘柄の通った大手の蔵でも自家の醸造能力には限界がある為、地方の知名度の低い中小蔵の完成した酒を大桶のまま買い集め、これを自社工場に運んで大タンクの中でブレンドした物を自家マークを付けて市場に送り出していました(→参照 生一本)。苦心して造り上げた愛する酒を日の目も見せずに原料として使われる事は蔵元にとっては不本意であったものの、実はこの「桶売り・桶買い」制度に伴う、多くの品質の異なった原酒のブレンド作業が新しい品質の酒を生み出す契機と為ったのであり、そして又これは酒造技術史上一つの特筆すべき操作でもあったのです。詰まり「清酒はブレンドすると劣化するよりも向上する事の方が多い」、「別々に唎いて似たような酒でも、ブレンドすると元の 原酒 に無かった新しい風味が出てくる事が多い」という声が多数を占めたのであります。恐らくは「感覚に乗らない微妙な風味の相乗効果」というようなものが、此処には在ると推測されます。(造石税制度が実施されていた戦前では、課税は製造者の段階で終わり、また四斗樽で取り引きされていた為にそれ以降はブレンド自由、割り水自由で、清酒の流通や価格の決定については専門的な商品知識を持った卸しや大手小売りの段階で行われていたようである)

 一方で西洋に目を向けますと、周知の通りスコッチの殆どの有名メーカーは自家工場を持たず、その系列に属する原料酒工場の酒を買い集め、貯蔵し、ブレンドして出しております。フランスを見ましても、コニャックではこれと似たような遣り方で、詰まり買い集める他に自分の所でも多少は造っている事が普通で、ワインにおいてもネゴシアンなる問屋兼半メーカーの仕事も同様な部分が多い。彼等はワイナリーからワインを で購入し、樽貯蔵させ、頃合いを見張らって瓶詰めして自家ラベルを張って売り出します。元詰めではないけれども、元の通りの酒を元のワイナリーの範囲でブレンドして貯蔵後に出すという遣り方です。定めし各メーカーには、自家製品に対する品質や風味上における方針、或いは見識というものが有って、それに合わせるような アサンブラージュ 技術が、古来の伝統に基づいて確立しているのでありましょう。それはシャンパーニュのクリュッグを見れば自明の理であります。

 中世においてシャンパーニュ地方の大きな修道院では、葡萄栽培農家が税の支払いの為に持ち込んだ葡萄からワインが醸造されました。そして当然それらの葡萄は異なる区画の異なる品種であった為、それらを混合してワインを醸造する必要がありました。これがアサンブラージュの原型であります。そしてドン・ペリニョン修道士が様々な産地の葡萄を混合する事が製品の品質に調和を齎す事、特に欠点の有る葡萄が含まれていた場合にそれをカバー出来る事を発見し、ワイン品質の安定性向上に繫げたのであります。そしてそれ以降、シャンパーニュ製造者達の間で異なる産地や品種のワインをブレンドするように為り、更に異なる ヴィンテージ(特に良年)のワインがブレンドされるように為りました。そしてこれは、年により得られる葡萄の収穫量や品質の変動が激しい、北方で冷涼なシャンパーニュ地方でのシャンパーニュ造りにおいて、極めて重要な方法と為ったのであり、このアサンブラージュ技術によって品質が常に一定のNVノン・ヴィンテージ製品が確立されるに至ったのであります。

 呼称資格試験受験者の記憶力を疲弊させ脳味噌を干上がらせる程に規定が細かいワイン法ではありますが、実はアサンブラージュに関しては細かい技術的な規定は定められていないようで、シャンパーニュ委員会では、シャンパーニュの品質向上についての研究を様々なテーマを設定して実施しているのですが、アサンブラージュに関する研究は実施しない事としているのだそうです。それは「アサンブラージュだけは各社の創意工夫に任せる」という考えに基づくのだとか。抑々、香味にまで共通した規制を設ける事自体ナンセンス且つ不可能なのですから、当然と言えば当然であります。兎も角この事は、アサンブラージュはシャンパーニュ製造において、殆ど唯一自由に、自社ブランドの差別化を行える手段である事を示します(※3)。だからこそグランメゾンにおいても、小さなRMレコルタン・マニピュランにおいても、アサンブラージュ技術は非常に重大なもので、アサンブラージュの為の試飲会は単なる会議と言うよりも、一種の神秘的な儀式と呼ぶべき場と為るのであります。因みに中小企業、特に家族経営のRMでは、アサンブラージュ作業は一家全員で討論を繰り返しながら数週間掛かりで行われるのですが、これを家族の年中行事として、所謂クリスマス休暇の行事として慣例化している家族も多く、遠方から帰郷する家族を待って実施される事もあるようであります。また親戚や近所の友人を定点的な評価者として迎え入れている場合も多く、地域のカウンセリング業者の技術者を招いて実施するのも一般的なのですが、何れにしても最終判断を下すのは醸造責任者である家長であり、この家長の下、家族一丸と為ってアサンブラージュと試飲を繰り返す事により、自分の家の味、我が家のスタイルを揺るぎ無いものとし、それを子孫に繫げて来た事が、彼等にとっての大きな誇りなのです。

 ※3 各企業の基本的なブレンド比率の差異が、当該企業の伝統やスタイルを決定し、それを訴求する根拠と為る。古くは、各社で工夫を凝らして編み出されたそのブレンド比率が、各社固有の重要な企業秘密であったようである。これこそが、シャンパーニュのアサンブラージュが最大の秘密と言われる所以である。しかし乍ら、近年ではこの比率は秘密とするよりは一般に周知して販売するのが一般的になっているが、それは造り手側の目線よりも消費者側の目線を重視する時代になったからだろう

  改めて日本に帰って来ましょう。国税庁HP第86条の6「酒類の表示の基準」に拠りますと、「吟醸酒、純米酒又は本醸造酒を二種類以上混和した清酒」「特定名称以外の清酒(精米歩合70%以下の白米、米こうじ、醸造アルコール及び水を原料として製造した清酒に限る)と吟醸酒又は純米酒を混和した清酒」(一部改訂)も「本醸造酒」を名乗れるという事でありますが、此処に消費者が見落とす意外な盲点があるのです。竹鶴政孝の『ウイスキーと私』という本には次の様にあります。「モルト(原酒)は同じ時に、同じ方法でつくっても、育つ環境によって、たいへん違ったものに成長する。それを合わせると更に味がよくなるのである」。又アサンブラージュは屢々しばしば画家の仕事に喩えられるのですが、それは詰まり「多くの絵の具原酒を持っている企業は、その分複雑な香味を描く事が出来る。絵の具の種類が多くない企業も、限られた絵の具を駆使して、綺麗な、或いはインパクトの有る絵を描く為の工夫をする。アサンブラージュでは、単なる足し算ではなく、相乗効果が期待される」という事であります。要するに筆者は、語弊を承知で申しますが、「本醸造酒もブレンド次第で大吟醸酒に為れる」と言いたいのであります。スコッチメーカーは「酒はただ混ぜたんじゃいかん、マリッジさせなくちゃいかん」と言います。日本でも江戸時代には「酒は交合させなくちゃいかん」と言われました。これを理論的に科学的に考えるのは難しい問題でありましょう。だからこそ、所謂「数式に乗らない」非合理性というものを再評価すべきこの時代であれば尚更、ブレンドは絶対に面白いのであります。ブレンドした相手の酒により、糖分が際立つ時と、酸が際立つ時と、受け皿によって味わいが違って来るのです。是非とも味覚がこなれた皆様には自分好みのブレンドを成し得て頂きたいと思うのであります。

 ではブレンドしたらどうなるのか、個人的経験に基づいた例を挙げて見ましょう。因みに灘では「自分の酒」を基準にしてそれにブレンドして行くという、世界的に見てもちょっと例の無い遣り方を遣っておられる事もあったようでありますが、何にしても自分の 嗅覚 と味覚という官能に頼る事に変わりはありません。そして手持ちの原酒のテイスティング評価を確りとして置けば、ほぼ同じ品質を毎回再現する事も可能です。そうして行くと、香水の調合士パフューマー宛ら(参考 匂い)、スコッチにおけるブレンダーの様に、「ノージング」詰まり アロマ を嗅ぐだけで味の評価が出来るようになるでしょう。更に進んで行くと、食事とのペアリングの様に、原酒同士の相性が分かる事もあるそうで、長所を高め合う組み合わせに対しつかり合う組み合わせ、不可解なところだと、互いの香味が無くなるマスキング現象もあるそうです。更に別の例だと、二つの原酒をブレンドしても現れなかった一方の欠点が、三つ目の原酒を混ぜると突然現れる事もあり、これを「マスキングが外れた」と言うそうです。何にしましても、専門家にとってでさえ謎が多く奥深いアサンブラージュですが、千人に一、二人と言われる嗅盲(無嗅覚症、嗅覚障害)で無い限り、経験を積み重ね記憶力を駆使する事でブレンド技術は高められる筈です。小学校以降の既知を暗記する事に必死の生活の中で、未知への向き合い方を忘れた人々にとって、答えの無い学習というものは、無駄に終わるという危惧が先行して、始める意思を容易に打ち砕くものでありましょう。しかし「未知から知を生む技術」、ソクラテスの言う「産婆術」的行為を無くした人生というものに、果たして何の価値があるでしょう? 失敗を重ねなければ新たな発見をする事は出来ません。さあ、皆様も幼児期まで実践していた「仮説思考と試行錯誤」に今一度挑戦してみようではありませんか!

 扨、飲み残しのアル添酒がありました──「こいつは切れは好いが辛さですっきりし過ぎてどうもいけ好かない」。そして手元には開封したての純米吟醸酒──「こいつはフルーツ香ばかりが鼻に付いて料理にも合わせ辛くどうもいけ好かない」。台所には安価に入手した一升瓶の純米酒──「香り立ちが低く甘味がもったりしてこれまたどうもいけ好かない」。「ええ、ならば見よ」と、試しにこれらのいけ好かない三つを半ば自棄糞やけくそに為って混和してみると、何ともはや、素敵な純米大吟醸的酒に化けたではありませんか! これに味を占めた筆者はそれ以後、試しに買った酒を「ええ、特徴の無いのっぺらぼうな駄酒め!」とか「ええ、口に合わぬわ、捨ててしまえ!」とか言って自宅マンション五階のベランダから目前の田んぼに向かって放り投げる事も無くなり、寧ろそんな時にこそ日頃鍛え上げて来た味覚の本領発揮とばかりに、ブレンドの実験を繰り返した次第なのであります(自然環境即ち神々を愛する事から人生が始まった筆者ですから、これは言う迄も無く誇張的表現です)。──では此処にその結果の概要を纏めます。

・物によっては、純米+吟醸=純米大吟醸(「清酒の製法品質表示基準」に従えば本醸造だが)

・発泡清酒(日本酒度プラスの辛口タイプ:炭酸水の様に甘味が乏しいぶん味が平坦)+レモンウォーター(少々:酸を補充)→味に立体感が出る

・高アルコール(原酒)+低アルコール→中庸のアルコールの飲み易さ

・大吟醸(爽やか系:正直物足りない)+低アルコール清酒(甘酸っぱい系:正直飲み飽きる)+老ね(濃く、熟成感、辛、苦、(渋):正直諄い)〈ブレンド比率は各人のお好みで〉

・チリの青っぽいソーヴィニョン・ブラン+一升瓶などの残り少なくなりやや饐え始めた清酒〈1:4〉→ソーヴィニョン・ブランの酸と青々しい爽やかさがややダレかけた清酒のボディに活を入れる。不自然に甘酸っぱいワイン酵母使用の清酒より遙かに飲み心地が好い

 ※ この効果を活かした商品が月桂冠の「サムライ・ロック」(ライムの酸により白ワイン割りと同じ効果、だがライム風味が強過ぎて諄く、杯が進まない。また匂いからして悪酔いする酒質で、酒や水で20倍程に薄めないととても頂けない)

・清酒(甘味)+赤ワイン(タンニン)→立体感(料理との相性は難しいため単体で)

・清酒(可能なら純米大吟醸)+スパークリングワイン(可能なら 瓶内二次発酵 で十分にイースト香の出た物)〈10:1〉→ワイン由来の柑橘香と酸味が加わり、甘酸っぱいスパークリング清酒よりも一段高い質の、より深みの有る奥深い甘酸っぱさ

・純米大吟醸(爽やか系)+白ワイン(吟香様のメロン風味有)〈10:1〉→七賢の甲斐駒を思わせる風味に向上(ワインの入れ過ぎに注意、日本酒の個性が負ける)

・焼酎(苦味、旨味)+清酒(老ね:甘味エキス)→焼酎に円やかさが加わり、飲み易さ

・ウィスキー又はブランデー+清酒〈1:1〉→風味は無論前者主体だが、清酒のエキス分(糖、ミネラル)のお陰で水割りの様に水っぽく為らずに強いアルコール度だけが下がり、より洗練された風味

・純米大吟醸(爽やか系)+一年間売れ残って半額に為った久保田萬寿〈1:3〉→久保田が果実感と共に若返る

・苦味や辛口を和らげたい、アルコールが強い→甘酒割りも可(良質な添加物無しの糀100%物がベスト)

・汁物(味噌汁、すまし汁)+純米酒(ちょっぴり二、三勺)→汁物の風味の向上

 何となくイメージが湧きましたでしょうか? 一個人の消費者にとって、こういったブレンドは、一本一本の単価が高くまた個性が強いワインでは極めて難しい業と言えるでしょう(→このイメージとして、最も成功した例は洋楽の“We Are The World”⇒https://www.youtube.com/watch?v=s3wNuru4U0I)。日本酒はワインに比べると味がフラットで、赤ワインほど力強い物が少ない。また味の傾向もワインほど広くない(※4)事が、私の様な素人にも旨いアサンブラージュを可能にする要因であります(※5)。日本酒の面白いところは五味の何れかが自分の嗜好もしくは料理との相性から見て不足していると感じた時、他の日本酒を混ぜて補ってやる事がより容易に出来る事であります。各品種の個性が強いワインでは、ボルドーの造り手の様な知識と熟練が無ければ、中々こうは行きません。日本酒では互いが一歩譲ってくれるため巧く行き易く、奇妙な味に為る事が少ないのであります。総じて日本文化は異質文化の選択と調和の歴史であります。それはペリー提督が浦賀に遣って来て以来、それから日本は日本だけの価値観で良しとする訳には行かなく為りました。『田崎真也のスーパーSAKEレシピ』には次の様な文面があります。「ヨーロッパでは、ワインと料理の関係を夫婦間のそれと同じようにとらえます。夫と妻がそれぞれの個性を認め合い引き立てる・・・これが相性のいい夫婦。日本はどうでしょう。『これは日本酒に合うね』というと、酒の味をじゃましないもの、酒がすすむものを意味していました。いわゆる塩さえあればいい・・・というのもその理屈です。夫婦は? 一方が一方に合わせたり、お互いに干渉しないことを良しとするところ、ありますよね。日本酒と肴、ワインと料理・・・怖いくらい国民性を表していると思いませんか?」──その通りです。そしてそれで良いのです。この国の礎なる『古事記』には「国譲り」なる神話があるように、譲歩という美徳こそが建国の土台なのです。「和魂洋才」(※6)「和洋折衷」、矢張りこれらの言葉の内に、現代日本人として生まれた者が取るべき国際人の在り方があるのです。ブレンドは味わいを変えるのであります。

 ※4 味の薄さは上品さの要因の一つ、それは料理もワインも清酒も同様である

 ※5 よって酸が強い 生酛 系では個性が強く、少量でも圧倒するため他とバランスが取り辛く余り巧く行かないようである。また日本酒は完成度が高い為にその特徴を活かし辛い事や、ウォッカやジン等の蒸留酒に比べてアルコール度数が低い事から、カクテルにするには難しいとされる

 ※6 明治時代の佐久間象山の言葉で、「西洋の科学技術を学ぶが、根本と為る精神は儒教を始めとする日本人が磨き上げて来た道徳である事を忘れるべからず」の意。この言葉の原案は十世紀、平安時代の菅原道真による「和魂漢才」(大和を大事にしつつも、中国の学問を取り入れるべし)。なお象山は次の様な言葉も残している、「二十歳にして一国(藩)に属する事を知り、三十歳にして天下(日本)に属するを知った。四十歳にして五世界(国際社会)に属するを知った。」

本日の箴言

 ウィスキーの最後の仕上げは、古い原酒と新しい原酒をブレンドして、また樽に入れ再貯蔵し、調熟させる仕事がある。ウイスキーのブレンドは不思議なもので、新しいモルト同士の場合は当然のこととして、古いモルトと古いモルトをまぜ合わせても結果は必ずしもよくないのである。ところが、古いものに新しいもの、たとえば十年ぐらい熟成した原酒に五年前後の比較的新しい物をブレンドすると、新しいものが古いものに同化して旨いウイスキーが出来る

竹鶴政孝『ウイスキーと私』

平日の一杯

「糀2倍の純米酒」(Alc10.5%)+「ロックで楽しむ純米 原酒 貯蔵酒」(Alc18.5%):灘の大手沢の鶴、同蔵製品の組み合わせ

 前者は薄っぺらく、後者は諄い風味で、失礼ながら正直どちらも単体では頂けないが、〈5:4~1:1〉で割ると両端のバランスが取れ、アルコールも14.5%程と為り、これが中々素敵な味の酒に化ける

 前者は900mL814円、後者は720mL1000円(執筆時点の価格、共に税込)、共に全量その儘ブレンドすればきっかり5:4の比率で計1620mL、詰まり四合瓶2.25本分の量で1814円

欧州で若手の造り手達が制限の多いAOC表記に見切りをつけ、格下のIGP表記にてより自由な遣り方で優れたワインを造っているように、また曾て級別制度が「国家による詐欺犯罪」と扱き下ろされる程の、税金を効率好く取り立てる為にアルコール度のみで級分けしただけの杜撰極まる格付けであったように、精米歩合の低さだけが注目されがちな特定名称も意味を持たなくなりつつあるように思われる。栃木県のせんきん蔵元、薄井一樹氏は次の様な内容の事を言っておられた。「日本酒は精米歩合の表示義務はあるが、酒母日数を表示する必要はない。天然酵母を使えば酒母を造るのに40~50日かかる(速醸酛は1週間ほど)。日本酒の価値を精米歩合の様な物差しで計るべきではない」
兵庫県:宮 を使用した男酒でその令聞が響く灘を有し、「酒米の王」と呼ばれる山田錦の故郷で、大小の酒蔵がひしめく、生産量全国一の酒処。米の味を確り出した芳醇な造りをする傾向。合わせるべき郷土料理はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/hyogo.html