速醸酛

 現在、清酒全体においてその使用率が九割程も占める(※)この偉大なる酛立て法(作業の効率化が実現された反面、品質の均一化も引き起こしたが)の創始者、江田鎌治郎氏はその高著『乳酸馴養じゅんよう最新清酒連醸れんじょう法』と『杜氏醸造要訣』において次の様に述べておられる。(他人の文面を拝借するより、ご本人の言葉を引用した方がより説得力があろう。以下、箇条書き、引用部は現代漢字・仮名遣い且つ前著は青字、後著は緑字にて記す。ルビは管理者によるものあり)

 ※ 大正六(1917)年から昭和八(1933)年迄に生酛は全体の74.8%から44.0%へと減少し、山廃酛は18.7%から31.2%、速醸酛は3.3%から21.1%へと増加した(『清酒吟醸要訣』〈仙台税務監督局編、昭和九年〉)。詰まり、明治四十三(1910)年に起源を持つ速醸酛も直ぐに取り入れられた訳ではなかったという事である

衛生的國民飲料たらしめんが為に多年苦心研究の結果遂に発明完成したるもの

此の方法の大体を説明すると、従来のように、繁雑な酛取りをしないで、先ず酛、もしくは醪の一部を取り、之れに乳酸の適当量を加えて、比較的強酸性とし、一週間以上数週間馴養して置くと、有害「バクテリア」類や、軟弱な酵母は、酸のめにことごとく死滅して、ひとり強健な清酒酵母けが、く酸に馴れて、体質益々頑強となる(中略)故に此の方法の骨子こつしとするところは、原基母料げんきぼりょうに酸を加えて馴養することゝ、之れを使用して、元添もとぞえ仕込をすることの二点で、之れさえ確実に遵守されるならば、誰にも簡単容易に、実行され得られるのであって、従来のような、酛取りをする繁雑手数もなく、且つ暖気だき操作等の為めに、絶えず熱湯を用意して置くの必要がないから、近年の如く燃料や、工賃が高くなって来ては、僅かな乳酸代の如きものは、之れを償うて余りありと思われるのである。

これを考案するに至りし動機は、従来の酒母製造法がはなはだ迂遠に近くかつ之れが製造に長時日を要するのみならず、労力、器具、場所等を要することすこぶる多く、尚且なおかつ常に不確実たるを免れざるを以て、此の時日を短縮し且簡易確実に酒母を製造することを得ば、醸造上の便宜けだし少なからざるしとの考へより之が実験に着手し遂に幸にも今日の好成績を得るに至れり。

温暖季節に於ける酸馴養連醸法は冬季連醸のものと大差なきも比較的仕込を小にし踊を省略し櫂入を強くし、麴をやゝひねにし枝桶を多く使用する等専ら糖化を良くし、醗酵を抑制するの方針を執るべし。

・在来酛取法(普通酛詰まり 生酛 の事)の長所の一つに、「酒母は辛酸渋苦しんさんじゅうくの四味所謂いわゆる酛意地強烈なるが故に害菌に対する圧迫力強きこと」を挙げ、短所には、「酒母製造の繁雑なること、就中なかんずく山卸操作の如きもしくは暖気操作の如き労力手数を要する莫大なること」「自然の微生物に信頼するが故に一朝不良細菌に遭遇するか或は之が処理法を誤るときは不測の災害あるを免れず、従て安全確実ならざること」「酒母は辛酸渋苦の諸味強烈なるが故に、兎角とかく酛意地とて苦渋酸の苛烈なる風味を製成酒に付与するの欠点あること」「製成酒の品質に甚だしき不同を生ずること」「酒母製造に長時日を要すること」を挙げておられる。

速醸酛は、 普通酛や山卸廃止酛とことなり、米粒の溶解糖化良好で、醗酵完全に行われ、甘味のくい切り良好で、酸味がすくないから、味は頗る淡泊で、熟成後上澄することあり、又多少苦味を感ずる場合もあるが、乳酸使用量に誤りなく製造経過に欠点なければ、安心して使用すべきものである。

速醸酛実行に際しては、酛麴は成るべく若くして、力ある麴を必要とする。即ち純白の程度に於て、比較的なし「ハゼコミ」深く、甘味かんみ多量なのが宜しい。

加酸速醸酛に関し著者のかつて下したる結論の要旨

(1)乳酸の一定量を使用しその仕込温度を加減して酒母を製造する時は山卸操作を省き四、五日間の短期間に於て品質優良なるものを確実に速醸することを得べし。従って従来の方法に比すれば著しく時日を短縮し得るの利便あり。

(2)酒母製造に要する労費を節約すること多大なり。

(3)酒母製造に要する半切操作を省略し、かつ暖気操作の全部若くは一部を省略することを得るが故に、酒母製造に要する器具、燃料および場所を節約し得ること大なり。

(4)酒母製造の操作極めて簡単なり。

(5)蒸米を比較的熱き中に仕込み、且つ短期間に製造し得るが故に酒母製造中の飛散量極めて僅少にして従って之が製成歩合多し。

(6)米粒の溶解糖化を良好ならしむる為汲水量を十水以上とするを便とするが故に、縦令ば従来の五斗酛一個量の酒母を製造するものとすれば之に要する原料米は一斗以上を節約するを得べし。

(7)一般に酵母の発育佳良にして、品質略ぼ一定し不純に趣くの惧れ少きが故に、従来の酒母使用量に比し二割以上之を減少して使用することを得べし。

(8)米質の硬軟如何は普通酛の如くに其の影響を受けず、即ち普通酛に在りては一般に軟質の米を賞美して硬米甚だしく嫌忌すといえども、速醸酛に在りては硬米と雖も容易に之を軟化し溶解せしむるが故に、米質の硬軟如何の如きは酒母の良否に格別の影響を及ぼさず。

(9)普通酛に於ける水質の硬軟如何は著しく其の成績に影響し軟水酛取りは頗る困難と称せらるるも、速醸酛に在りては全く左る掛念けねんなし。(以下略)

(10)温暖季節に於て普通酛取は頗る困難とせらるゝのみならず、一般に香気悪しく且つ弱酛たるの傾向は免れざるなり。しかるに速醸酛は全然之の患なきのみならず却て操作容易に行はるゝの利便あり。かも其の品質一定優良なる点に於ては冬季製造の分に譲らず。

(11)乳酸を使用する速醸酛は酵母の発育著しく佳良にて殆んど有害菌の存在を見ず。あたかも清酒酵母を純粋培養せると同じ故に、酛の使用量を比較的減ずるも差支なし。従来より二割以上五割位減ずるも其の効果に於てはかえって大なりとす。

 序でに、氏が考えた銘酒の定義とは以下の通り:①甘酸辛などの諸々の味が調和している事 ②舌触りが滑らかで口中の流れが良い事 ③泡雪の消え失せるが如き爽やかな後味である事 ④旨いのほか何物をも残さない酒質である事