第三十六瓶 燗酒

 ──「ゆるく飲める物こそが、清酒の在るべき本来の姿」、さてその心は? ちまたでは清酒の「個性」という事が主題として取り沙汰される昨今ですが、人口に膾炙かいしゃする余りこの語はもはや個性的ではないので(今まで散々使って来た癖にネ)、敢えて此処では清酒の「真髄」という語を当てて筆を進めて参ります。扨その心は?

 最近では、すっかりと定着したところでは、貴腐 ワインの様に甘味が強い物、これから拡大して行きそうな、シャンパーニュの様に 瓶内二次発酵 を経た物、そしてまだ試作的な、白ワインの様に酸が高い物といった話題性の有る清酒が造られていて、特に若手杜氏達が見せる、新境地を求める開拓者精神には目を見張るばかりであります。しかしそういった真新しい物のみを追い掛ける事は、己れの根っ子が無い者の所業であります。では「日本酒の真髄とは何か?」──それは今迄に機会がある毎に申して参りました通り、旨味 であります。今回はその先に進みましょう。では「その旨味を更に引き出すのは何か?」──それは、既にお察しですネ。そう、燗であります。

「飲み方を考えるのは高度な文化の表れ」とは以前『ワインと食事』の稿にて述べたところですが、「霙酒みぞれざけ(0℃)、雪冷え(5℃)、花冷え(10℃)、涼冷え(15℃)、日向燗ひなたかん(30℃)、人肌燗(35℃)、ぬる燗(40℃)、上燗(45℃)、熱燗(50℃)、飛び切り燗(55℃)」と、数々の美称を付した温度帯による飲み方を考案するほど日本人の文化性は優れていました(※1)。確かに温めるという作業はワインでもビールでもウィスキーでもあり、スパイス等を加え温めて飲むグリューワインは広く知られている所ですが、日本酒の様に何も加えずに温めて飲むのは極稀でありましょう。只、寒さの厳しいドイツでは高齢者がビールを湯煎して飲んだり、フランスでは体調不良時にワインを薬の様に温めて、又スコットランドでも風邪をひいた時には、彼等が “Hot Toddy” と呼ぶホット・ウィスキーを飲む事があると聞いた事はあります。が、いずれにしても特殊なケースと言えましょう。しかしながら日本酒の本来の伝統的な飲み方は燗にあるのです。徳利とお猪口🍶でちびりちびりと緩く遣る、それが日本人の在るべき姿であります。お洒落なワイングラスで燗は出来ません。それらは香りを感じ取るのに最も有効である事は「グラス」の項に記してあります。しかし繰り返しますが、ワイングラスでは出来ない事、それが燗であります。「じゃあ、温めた酒をグラスに注いだら?」と思う方も居られるでしょう。しかし燗酒は、保温効果が無い上に液体の表面積が広くなるグラスに注ぐと急激に温度が低下し十分な味わいの膨らみを楽しめない上、猪口に比べ好ましい苦味のある凝縮味も十分に活かされず、薄っぺらく感じられる嫌いがあるのです(よってグラスは25℃が限界か)。まさかフラミンゴの脚の様に細長いステムごと湯煎する人も居ないでしょう。尤も、自分ごと湯船に浸けながら飲む人が居ればまた別ですがネ。(※2)

 ※1 よって供出温度を定めない清酒のブラインドは難しい。清酒は光と温度の影響を最も受け易い繊細な酒ゆえ、少しの温度変化で全く違う表情を見せるからである

 ※2 クレオパトラがワイン風呂を楽しんでいたのは良く知られているが、清酒風呂もまた肌に好く、α-エチルグルコシドが保湿保温および荒れ肌防止効果、また抗酸化物質のフェルラ酸がメラニンや細胞老化の抑制を助けるという。「化粧はやめろ、替わりに酒粕で顔を洗え」と言う蔵人も

 では日本人はいつから酒を温める事を覚えたのでしょうか? そこで古い文献を紐解くと、万葉集にて山上憶良やまのうえのおくらが『貧窮問答歌』に「すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒かすゆざけ うちすすろいて」と詠っている事から、7世紀には既に「酒粕を湯でといて暖をとる」事が為され、当時の貧しい庶民はその酔えぬ薄酒で日々の労苦を癒していたようであります。また825年に嵯峨天皇が交野かたのに遊猟した際「煖酒」が勧められてその美味を褒め称えたとされ、『延喜式』(905年編纂、927年完成、967年施行)の平安中期以降には、儀式では冷や酒ですが、客を寒い晩に持て成す時は燗酒が一般化していたと言うほどお燗の歴史は古いようであります(相手の為に火を起こすという一手間掛ける「お持て成し」)。1013年頃成立した『和漢朗詠集』には酒を暖める記述が、そして13世紀の『宇治拾遺物語』には燗酒を飲んだ記述が見付かります。一方『三養雑記さんようざっき』(天保十三〈1842〉年、山崎美成著)巻三煖酒あたためざけに、「酒をあたゝめ飲めること、むかしよりのならはしなれど、今世のごとく、四時ともに常にあたゝめたるにはあらず『延喜式』内膳司ないぜんし土熬堝どごうくわ(陶製の壺、燗鍋の元祖)は、今の燗鍋にて、上古よりその器もあれど、煖酒あたためざけは重陽の宴より、あたゝめて用ゆるよし、一条冬良ふゆら公の御説のよし『温古日録おんこにちろく』に見えたり。徳元とくげんの『初学抄』に、扇は四時ともに用ゆるものなれど、夏の季なるよし、近ごろ酒も四時ともにあたゝめ飲めど、あたため酒といえば、冬の季になるなりとあり。さて酒のかんに、今燗という字をかけるは俗字なり。酒をあたゝむること、冷と熱との間に温むるといふことにて、間を字音によびて、かんとはいへるなり。燗は字書によれば、音闌おんはらん、爛と同じ」とあります。詰まり「燗酒」は古くは「煖酒だんしゅ」と書き、この「かん」は「熱からず冷たからず、その間」という意味という事が分かります。また燗はらんの俗字であるとありますが、カンは和訓で昔は酒、、茶など適当に温める事をカンと言ったようで、現在では専ら酒に用いられるように為りました。また延喜式の時代は燗をするのに小さな銅鍋を直火で暖めたとの事ですが、それは時を構わずに行わなかったようで、重陽節ちょうようせつ(九月九日)の宴より後、秋冷気が感じられて以降にお燗をするようでありました。詰まり、曾ては秋(重陽・菊の節供)から冬或いは春(遅くとも三月二日即ち上巳じょうしの節供の前日迄)にのみ燗をして、夏には冷やで飲んだのであります。しかし江戸時代に為ると年中燗で飲むのが当たり前に為り(※3)、庶民は夏の土用に鰻とぬる燗で夏バテ対策をしたという事であります。江戸末期にはおでんを肴に燗酒を供する屋台店が出て来て「おでん燗酒」などとも呼ばれたようであり(当時のおでんとは豆腐や蒟蒻こんにゃくなどの味噌田楽の事)、そして昭和三十年代に為っても清酒はお銚子で燗をして飲むのが一般的或いは品が良いとされました。通常の宴席では清酒は燗で供され、お客に冷やで出すなどという事は失礼に当たるというのが持て成しにおける社会通念であったようで、勿論各家庭での晩酌も燗酒で、詰まり清酒の八割以上が燗酒の消費で支えられて来たのであります。ところが1980年代に為ると清酒の需要が低迷し始め、その原因は「燗に伴う煩わしさだ」と大真面目に議論される光景が見られたというではありませんか。しかしそんな無精者共の喚き声など聞き流し、「手間が掛かるものほど愛おしい」と思う情け深さを持って、今もなお真夏でも燗をして飲む人が居ます。「燗は人肌に限る」などと通ぶって、地球温暖化も何のその、猛暑にもめげず、世間のうるさい熱中症警告に耳を塞ぐかように締め切った部屋で火を起こし、冷房も付けずに鍋と頭から立ち昇る湯気の中、滂沱ぼうだたる汗を拭き拭き、我慢比べでもするかのように焦熱の季節に燗をして飲む人が居るのです! この目を見張るべき行為の裏には何かしらの人生哲学でもあるのでしょうか? 儘ならぬ人生で自暴自棄に陥った末の酔狂か、それとも結局唯の一個人の嗜好の問題に過ぎないのでしょうか? 何にしましても不自然な所業である事に変わりはありません。何故ならそれは、自然に則った感覚をお持ちの方には十分お分かり頂けると存じますが、気化熱の影響から、体からより熱を奪うアルコールは水より冷たく感じる為だからで、矢張り古人の遺風通り春から晩秋迄は冷やで飲み、晩秋から冬に掛けて燗酒を飲むものであるのです。いやはや、「温故知新ふるきをたずねてあたらしきをしる」の筆法とは正にこの事であります。

 ※3 フランシスコ・ザビエル(1506~1552、滞日1549~1551)の後に来日した同じイエズス会士フロイス(1532~1597、滞日1563~1597)は『日欧文化比較』(1581)にて、「われわれの間では葡萄酒を冷やす。日本では(酒を)飲む時、ほとんど一年中いつもそれを暖める」「われわれの葡萄酒の大樽は密封され、地面に横たえた木の上に置かれる。日本人はその酒を大きな口の壺に入れ、封をせず、その口のところまで地面に埋めておく」と、互いの風俗習慣の正反対振りを書いた

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徳利は保温性が高く、猪口は少しずつ味わえる為、燗に欠かせないアイテム(冷酒ほど大振りの器の方が美味しく感じ、燗なら小振りの器の方が味の凝縮感が出てより良い)

 ではこれより本題に入って参ります。詰まり、燗につける事で味わいは如何に変化して行くのでしょうか? 簡潔に纏めますと、①より辛口ドライにし、渋み や濃くを生みテクスチャーを引き締める ②アミノ酸や乳酸を増やし、米や糀の風味を目立たせ、甘味や 旨味 を豊かにする ③一方、温め過ぎはアルコールの揮発成分による刺激を鋭くさせる、という具合です。そして温度帯についてですが、ぬる燗が最も通好みとされ、清酒の柔らかさや旨味が十分に感じられる温度と言われます(※4)。それは、甘味は体温を越える37℃位で最も強く感じる為で、それ以上高温に為っても余り変わりません。一方、酸味は温度による感度変化は無いとされています(「然程・・変わらない」という意見もあるが、それは後述するように〈量ではなく〉質は変わる為だからであろう。であれば一般消費者の素人味覚では尚更「変わる」ように感じる為、一般消費者向けの当サイトでは後者の意見も反映させる)。そしてアミノ酸や乳酸は低温だとギスギスした刺激が出ますが、体温以上だと円やかに為る事もあり、それが 生酛 や山廃酛が燗適酒とされる所以ゆえんでもあります。此処には、辛口の酒は高温に強い性質がある為、加熱により不安定な状態に為りにくいという事もあります(勿論、辛口のがっちりした苦味が温度と共に上がる甘味度合いと釣り合う)。とは言え、この「温度と味わいの関係」は実に多様な要素が絡み合い非常に難解、どれだけ頭の中に知識を詰め込んでも、当方には実際に試してみて初めて「旨っ!」(予想以上)又は「こんなもんかな」(予想通り)或いは「ダメだこりゃ」(期待外れ)と、肌感覚で得た経験からしか分からないようにも思われます。しかしながら何もせずに諦めるのは余りに容易い事ですので、次に表をこしらえてみました。ご理解の一助として見てみて下さい。

※4 最近では日向燗が「新酒や古酒、吟醸 酒でも美味しく飲める」として親しまれているが、伝統的には、燗は人肌を以て良しとした。「酒の燗は人肌」という諺通り、清酒本来の甘味を引き出す35℃前後に浸けるのが良い。生理的見解では、甘味や旨味がニュートラルで刺激が無く体に優しいので、特にお好みがなければ、その語義からしても、是非人肌が温もる温度帯でお召し上がり頂たい。科学的裏付けとしては、42~45℃を越えエチルアルコールの沸点である78.3℃に近付くほど甘味度合いが下がり始めるのでその分苦味がより感じられるように為り、更に有機酸においては、50℃に至るとリンゴ酸は諄く苦い渋みが出、乳酸はやや酸が浮き出て渋みも現れ、コハク酸は諄い苦味や刺激的な酸味が感じられるように為るからである
ひやあついの「あいだ」故「かん」という説に則ると「熱燗」は在り得ない事に為るが、それは唯の理屈で、寒さ身に染む冬の熱燗は矢張り捨て難く、それは清酒の大きな魅力の一つである。身も打ち震える冬の寒風を受けて家路に就いた後に啜る、湯気に包まれた熱燗が身心に染み渡る様は、さながら慈雨に遭った草木の思いである。外国の外食生活に疲れた日本人が帰国する機内で熱い緑茶を啜り、深い溜め息を吐いて落ち着く時の様である。しかし熱燗を飲むのも厳冬の夜更けぐらいであった事は、落語の種本と為っている安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』巻五の「上戸じょうこ」の条にも記載されている。実際、50℃を越えて来ると揮発性の香りが刺すように現れ、クリーム系の香りが無くなり炭っぽい匂いが出て来るから、熱燗否定派の意見にも頷ける。ところで健康面から言うと、体を冷やすワインに対し、日本酒は蒸留酒よりも体が温まった状態を維持させるとも。実際、蒸留酒はアルコールがストレートに回る酔い方をするが、特に燗酒はじわじわと心地好く酔いが回る為、冷え症気味の人に勧められる

 ご参考迄に、(特別)本醸造や純米酒はクリーム的しっとりとした甘味によるスムースなテクスチャーと穀物や蜂蜜様の風味により複雑みが引き出され、ボディが強まり豊かに為ります。純米(大)吟醸は酸・苦・渋による骨格や 押し味 が、次はトリッキーな遣り方ですが、フルーティでフレッシュな 酒は温度が上がるとCO2ガスの刺激感が立ち、ナッツ香の旨さが現れる傾向にあるようです。また古酒は燗適酒で、その豊かな香味を更に高めます。一方、吟醸 酒は冷やしめで飲まれる事が一般的ですが、それはデリケートタイプの物に限っての事で、香味の強いタイプは燗上がりし、果実的鮮やかな甘味や華やかな美味しさが活きます。この背景には、1970年代にナイフやフォークを使う欧州料理が日本の庶民層にまで浸透して来ると同時に、グラスを使う欧州ワインも広く受け入れられ始めた事があります。その影響もあってか、酒造業界ではワインの様な洗練された香味を出す酵母が開発され始め、一般人が口にする事の無い鑑評会用の吟醸酒が市場に出回るように為って来ました。そして吟醸酒はその繊細さが故に、加えて揮発性の高い吟醸香が鼻につく為に、更には吟醸酒に多めのリンゴ酸は20℃を越えて来ると締まりの無いボケた酸に為るという訳で、温めるべきではないとされたのです(※5)。今度はその逆の視点から述べますと、以前は、糖類を添加した普通酒の様な上質でない酒は冷酒としては難しく燗につけて飲まれる事が多かったのですが、それは温める事によってアルコール臭が飛び、甘・酸・苦・旨といった味が纏まりバランスが良く為る事で雑味が隠れるからでありました(※6)。そしてこの考えは現在もなお諸外国の方々のみならず前時代的日本人の脳裏にも根強く生き残っているようであります。恐らくそれは外国において熱燗は他に無いユニークで珍しい物であると共に、吟醸造りの清酒は入手しづらく且つ高価な為、燗適酒である普通酒や純米酒の方が多く出回っている為であり(※8)、また新しい物に懐疑的な年配の日本人は──人間の味覚は一度思い込むと中々変わらないという保守的な面も手伝い──昔ながらの清酒しか知らない為でありましょう。

 ※5 こと高価な大吟醸酒は絶対に冷やさねばならぬとされるが、それは冷やすと口当たりが好く為り飲み易く為るためであろう。しかし冷やし過ぎると香味が閉じ籠り、本来の味わいを楽しめなく為る。よって本当に飲んで美味しい温度は15℃前後、常温より少し冷やす事でリンゴ酸の軽快で爽やかな酸味が締まり果実感が生きバランスが良く為る

 ※6 電子レンジが発売された時、「電子レンジで燗すると二級が一級、一級が特級になる」とPRされた。因みに現在では「レンジの燗の味はフラット、好き嫌いはあろうがレンジで味が良くなるとは思えない」という声が多い。否定派の主張は「高周波で酒の分子を揺り動かすのは良くない。瞬間的に熱すると酒質が劣化する」。対し、肯定派は「瞬間加熱の方が酒質の変化が少ない。火入れも短時間で行われる傾向にある」と遣り返す。なお肝の小さい当サイト管理者は「時間がある時は湯煎、早く飲みたければレンジ」と、中立の意見で逃げます…(※7)。因みに、「高温で早くつけると引き締まった旨味が広がるため生酛系向き、ゆっくり温度を上げると甘味・旨味・香りが活きるため 生 原酒、吟醸系、繊細な古酒向き」とも言われる

 ※7 参考迄に、レンジの時間目安は徳利一本(一合)45秒でぬる燗(40℃)。また上下で温度差が出てしまう為、アルミホイルを皺に為らないよう首の部分にすっぽり被せると均一に温まります。又、徳利に先ず熱湯を通すのは「内部の匂い消し、埃払い、容器を温める」為です。蛇足:直燗(火燗)は直接火に掛けるため手軽な方法ですが、酒質を気にしないで好いような酒ならいざ知らず、兎角バランスの崩れたピリピリしたアルコールが目立つ酒に為りがちなので勧められません。興味深い昔の遣り方には、鳩徳利を囲炉裏いろりの灰に挿す「鳩燗」、湯の代わりに酒を使う「酒燗」(その贅沢振りから「馬鹿殿燗」とも)、貧乏長屋の弱い熱と光の行灯あんどんの上に徳利を吊るして温める、のんびりした「アンドン燗」等、風流(?)なものも在りました(古川柳に「お手前ら 行灯燗を 知るめいな」なんてものも)

 ※8 「カナダで消費される清酒の大部分が燗酒です。白ワインに近い摂氏8-12度で飲まれている清酒は25%もないかも知れません」──白木正孝氏(CANADA Artisan Sake Maker)

kitasangyo.com
お燗機能付き清酒(詳細情報→https://kitasangyo.com/SHC-System/SHC-Images/SHC_ppt_ed02.pdf
oenon.jp
「お燗番」は言わばお燗の専門家。客の好み、体調、飲酒ペース、料理等に合わせ、その客にとって最適な温度で酒を提供する、正に心まで温まる、日本的お持て成しの体現者と言えよう。「酒を煮る 家の女房 ちょとほれた」──与謝蕪村

 確かに昔ながらの清酒は──此処で言う「昔ながら」とは 速醸酛 が無い時代まで遡りますが──みな 生酛 か山廃酛、詰まり燗向きの酒しかなく、消費者も好んで燗酒を飲んでいました。「燗は江戸後期から発展して来た本来の飲み方」とか「元々清酒は燗向き」とか言われるのはこれが故です。対し「冷や」というのは、冷蔵庫の無い時代ゆえ冷やせない、詰まり常温で置き燗で飲むのが一般的だった為「温めない酒」という意味で、現代では「常温」と同じ意味と為り、20~25℃を指すように為りました。曾て貧民は冬に十分な暖も取れない事から「貧乏人の冷や酒」などとも言われたようであります。他に、良く耳にする名言に「親の意見と冷や酒はあとできく」というのがありますが、昔は冷や酒は敬遠されたものでした。それは、冷たくとろりとした 原酒 が喉元を越す快感と旨さは格別で飲み口が良い為、兎角とかく量を過ごし、最初の内は酔わなくても後で一気にいて来て深酔いするからであります。そして親の意見も同じで、当座はき流しても後で納得する事が多いという訳で、誠にご先祖は穿うがった事を言うものだと、唯々感服するばかりであります。一方で燗は飲む量に比例して酔いが進む為、飲み過ぎ防止にも為るのです。その訳は、例えば貝原益軒えきけんの医書『養生訓』には「温かい飲み物は体によい」とあるのですが、これを清酒において解釈すると、アルコールは体温に近い温度で吸収されるため時間差無く吸収され、酔い過ぎる事が少ない、と説明する事が出来ましょう。科学指向の現代風に言うと、二日酔いの原因でもあるアセトアルデヒドはどの酒にも含まれるのですが、それは沸点が21℃と揮発性が高い物質の為、燗につける事で体への負担が軽減出来るからであり、加えて、清酒はワインよりも長く体に残留しないという事もあります。

 他の利点としては、温めた酒を飲むと舌の味蕾(⇒続・ワインの味わい方 -葡萄酒との対話-)が開いて来て、味を鋭敏に感じるように為ります。また旨味成分は温度によって花開く為、特に確りした造りで熟成させた純米酒なら豊かな香りや濃くが立ち、料理の味や油に負けないより汎用性の有る食中酒に為ります。より具体的に言い換えますと、確かに燗によりアルコールと共に香り成分も揮発してしまいますが、その分乳酸やアミノ酸量即ちコハク酸やグルタミン酸等による旨味が増加する為、塩辛い料理や生臭い料理の臭みをマスキングし、旨味が豊かに為るのです。燗により甘味は快適さと共に厚みも増し、酸を柔らかい質にして料理を包み込むような相性が作れる為、料理の塩味との相乗、詰まり青魚や魚卵にも合わせ易く為るのです(特に珍味は熟成し、発酵して癖が強い為、燗酒に合う)。そして後口の切れが良く為り、口中をさっぱりさせて、次の摘まみへ進ませ、良い余韻も残すのです。おお、たった一本で和え物、生物なまもの、煮物、焼き物、揚げ物、蒸し物、水物と通して楽しめる清酒は歌舞伎の変化へんげ物にも喩えられましょう!(※9)

 ※9 温度のペアリング(⇒五味と五感から知る! ワインと料理のペアリング法)。例えば、刺身やサラダには冷やで合わせる事。冷vs温だと口内で温度同士がぶつかり合う。より繊細な方法に、ワインの様に デカンタージュ して少し温度を上げて酸味と広がりを出し、料理との相性を強める遣り方もある。ところで、その味わいの変化から個人的に信じているのは、「冷酒から燗酒への移行は、白ワインから赤ワインへの移行に似ている」という事。冷酒に適した吟醸酒には白ワインに似た果実香が有りスルスルと飲が進むが、一方で燗酒は渋みや苦味を感じさせ、舌を打ち鳴らす所作を生じさせる。それは赤ワインと共通したもの、「舌を打つ旨さ=酸味+ミネラル(塩味、苦味)+渋み」である。物のついで、変化舞踊をその目で篤とご覧あれ(⇒長唄 『鷺娘』立方:花柳まり草〈27:47〉9:40からの鮮やかな変化及び20:00~24:00の一連の変化、しなやかな舞にうっとり(´∀`*)、日本舞踊『藤娘』立方:由井寧々https://www.youtube.com/watch?v=Rm4vE-m0m7c〈14:23〉豪華絢爛な衣装、愛らしい舞ににっこり(*´艸`*)

 そう、清酒は燗で化けるのです。しかしそれは多くの俳優が遣るような、お着替えお化粧お飾りの表面的な七変化ではありません。むしろそれとは正反対、燗につけるとそれまで様々な要素にカムフラージュされていた部分が裸に為り、本来の味が姿を現わすのです。特にぬる燗はより素性が明らかに為ります。そして本物の酒は「燗冷まし」でこそ真価を発揮します。風味や切れが増し、飲みにくい味や香りが全て姿を消し、米の味や旨味だけが残るのです。成る程、燗冷ましは清酒業界の常識ではまずい飲み方という事に為っています。しかし芯が確りした酒(→並行複式発酵)は、たとえ 生 でも燗に耐えるのです。割り水した 原酒 でないアル添酒(→生一本)が燗に向かないのは酒の組成が壊れる為で、手抜きの吟醸酒を燗にすると人工的な付け香や合成的な酸が目立ちバランスを崩すのは、醪が完全に発酵していない時にアルコールを添加する事による低質なお里・・が故であります。確かに燗のしたてはアルコールの揮発と共に香りが立ち酸も立ちます。突出したものばかりがパッと出て来るのです。これを「酒が暴れている」と言ったりするのですが、だからこそ燗をしたら暫く置いて「燗冷まし」をするとバランスが良く為り、より円やかに為るのです。そして常温位迄に冷めると、内に秘めた旨味が一気に引き出され、詰まり、燗冷ましは化けの皮を剝がすので良い酒にしか効果がないという事なのです。特に 生酛 系の燗は燗冷ましにした方が生酛感が和らぎ味の特徴が出ます。大吟醸生酒も燗につける事で、落ち着きの無い粗雑な甘・酸・苦のバランスも見違えるように腰が座って纏まりが生まれます。それはまるで無邪気な小童こわっぱが、酸いも甘いも知り苦み走る日本男児へと成長するようであります。これが清酒の「真髄」、燗とは一言で言えば瞬間熟成。眠っていた旨味がはっと目覚めた、全ての要素を感じさせる調和状態なのであります。

〈補足〉「燗上がり」する酒(燗適酒)の必要条件、等

 ①エキス分(主体は糖分、甘辛や濃くを司る)②アミノ酸量(旨味と雑味は表裏一体)③(乳)酸量(女酒男酒〈→水〉問わず、双方共に複雑さ、詰まり味の幅は必須)↔これらが伴わない酒は燗につけると不味く為り、それを「燗下がり」「燗ダレ」すると言う。

 温めると甘味を強く感じ、酸味は(然程)変わらず、ゴク味は弱く感じるので、燗適酒とは純米酒や古酒など酸度がやや高く、押し味 の多い物とされる(五味〈→味わいの分析図〉において、甘・旨は35~40℃で最も感度が高く、塩・苦〈・渋〉は温度と共に感度が下がり、酸〈・辛〉は温度に〈然程〉影響されない)。各味の成分値は各酒によって異なる為、必然的に適切な温度は酒ごとに異なる(※10)。したがって、先ずは冷やで少し飲み、燗によりどの味が引き立つのかを推測する事である。例えば、「熱くしても大丈夫か、少しの燗でも旨味がワッと出て来るのではないか」等である。又、基本的に燗はいたわるように行うのが最善。酒も生き物だから優しくしよう。ゆっくり旨味を引き出して行きたいので、急速に温度を上げるのは邪道とされるが、山廃の熟成酒だけは温度を緩々ゆるゆる上げては駄目で、一度70℃位迄ガンと上げてパッと華やかに開かせ、それから50℃以下に落としキュッと締めるのが良い。

 燗は香りの華やかさではなく味わいの深さを楽しむもの。燗酒は鼻でなく喉で味わう酒である。よって香りを開かせるグラスではなく、空気を溜めない盃や猪口で飲むのが伝統的にも、生理的にも、科学的にも相応しい。宛ら加熱熟成するマデイラ(→メイラード反応)や酸化熟成するオレンジワイン(⇒旨味のオレンジワイン)の様に、どれも同一系の香り(蒸しパン、栗っぽさ、炊いた米、籾殻的穀物、カステラ、カラメル、ナッツ、チョコレート等)に落ち着くのは否めないからである。

 しかし上記の香りの特徴と個人的な実験から、燗は基本的に蒸しパン(特に卵風味の)、ミルク/ホワイトチョコレートや胡桃に合う(カカオバターや胡桃中の脂分が広がる)。生酛 系はダークチョコレートも可。

 ※10 飽く迄も一般的にだが、所謂いわゆる4タイプ別清酒の最適温度としては、薫酒は8~15℃、爽酒は5~10℃、醇酒は15~20℃又は40~50℃、熟酒は15~25℃又は35℃前後である

本日の箴言

If it is heated or chilled incorrectly, it will lose its flavor. This is the challenging yet rewarding side to drinking sake.

東京農業大学編 『国酒』“Traditional SAKE made in JAPAN”

「不適切に温めれば(又は、不適切に冷やせば)風味が失われる為、燗は酒を飲む上で厄介な、しかしその分報われる技術である。」(管理者訳)

記念日の一本

ひこ孫、純米酒(徳島産山田錦100%、精米歩合55%、日本酒度+6、アルコール度15.5%、協会9号酵母〈発酵過程でクエン酸よりもコハク酸や乳酸が多く出る〉)(神亀酒造、埼玉県蓮田市)

 濃いイエローの外観は蔵内三年以上常温熟成によるもの。適正に管理された事が分かるねていない適切な熟成メイラード反応香が主体:味醂、蜂蜜、カラメルやメープルシロップ、クミンやシナモンといったスパイス、ふくよかな炊いた米、軽めのチーズ香(カッテージやシェーブル)、また石灰の ミネラル 香

 喉元に押し寄せるアルコールの熱さと 押し味、18℃以下では酸が主張し苦味が雑味を感じさせるため適温ではない。0.5%程と極少量の加水の為か、分厚くぶれない酒質は燗酒用に設計された事が分かる

・20℃以上:上昇する甘味度合いも手伝ってより酸が円やかに感じられると共に、アルコールや苦味のきつさが無くなる

・30℃以上:クリームや蒸しパン、カステラ、又蓮華レンゲの蜂蜜やミルクチョコレートの香り。熟成香と共に甘・酸・苦・旨味が溶け合い、四味の区別が付かないシームレスな味わいに為り、体温に近付いた事もあってしっとりと口内に浸み込んで行く

・40℃以上:アルコール臭の揮発や苦味が出始める。熱由来か、再び低めの温度の時の様にアルコールの熱さも出現。とは言うものの、旨さは相変わらず

 日向~ぬる燗がベスト。燗冷ましでも味わいは全く揺るがない。重心が下がり、まったりとし、平坦な感じには為るが、体に負担が掛からず優しく入って来る、ほんわかした酔い。「酒は燗にして飲むのが基本。特に純米酒については、造って丸一年経た物は全て燗が相応しい」という事が身に染みて感じられる。燗、即ち温度で遊ぶ面白さを知るには恰好の品

江戸時代末期の嘉永元(1848)年創業。昭和六十二(1987)年、戦後初の純米酒造り、1987年に日本初の全量純米蔵に転換(日本は敗戦によって各分野の日本人研究者達が必死に積み上げて来た貴重なデータの多くを失い、蓄積してきた技術が使用出来なくなる事もあった。それは清酒業界も例外でなく、純米酒の醸造法を記した教科書は戦争で焼失し、戦時中登場した増醸酒の製造方法によりその技術は不要と為り途切れた。当酒造七代目蔵元の小川原良征氏が戦前の清酒を知る高齢の杜氏から教示を受けて復活させた。確かにアルコールを添加する前の醪は米と米糀及び水のみが原料であるから、その儘せば全て純米酒だが、氏曰く「本醸造からただアルコールを抜いただけではおいしい純米酒にならない。」多くの本醸造酒は「アルコール添加普通酒の親戚」に過ぎず、その味は醪を完全発酵させた純米酒の爽やかさ、自然の旨味には到底及ばない)。純米酒愛好家で神亀酒造を知らない者はもぐりと見て間違いない。毎年の冬、一度は楽しみたい酒(88℃の煮え燗にしても酒質の崩れが無いという!)

埼玉県:江戸前海川系濃醇旨口。一大消費地で、東京に近く古くから酒造業が繁栄し、酒蔵数および出荷量が多い。何でも、埼玉の酒蔵は個人プレータイプで集団行動が苦手なのだとか。合わせるべき郷土料理はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/saitama.html