第二十七瓶 再会のご挨拶

 或る国民は感覚で分かるが、別の国民には一向分からない、その違いこそが本来文化というものである。とは言え、その国の民として生まれて来ても教わらなければ矢張り分からないし身にも付かない。故に、分かる手段の一つとして「教科書」なる物が存在するのである。又「日本文化は日本国民のみが分かっていれば良い、異国民には到底分からぬ」と言うのは、日本の価値観のみで良しとする戦時中の「軍事主義・国粋主義」一辺倒の頃の日本国が威丈高いたけだかに掲げた文句の如きである。この国際化時代、斯かるめしいた思想は酒滓よりも無味乾燥な代物であろう。とは言え神話に見られる人間の起源や原初的な思想に心魅かれる私は、明治の文明開化に諸手もろてを上げて賛同する者ではない。西洋文明を性急に取り入れる余り自国の価値を見失わせた後遺症は今尚深々と残っている。西洋に追い付く事が文化だと誤って思い込んでいる日本人は今だ数知れない。確かにこれも新しい形の日本の文化ではあろう、がこれは日本独自のそれとは全く異質のものである。しかしながら私は、それにより日本の世の中が開けた事を、それが日本の人々の目を少なからず開いた事を認める事にやぶさかではない。そしてこの歴史的事実は、取りも直さず、異文化圏に育った人々にも異国の文化を理解出来るという事を意味する。非日本人にも日本文化を理解出来るという事を意味する。むしろ道徳律を排除する合理主義によってゆがめられた戦後教育を受けて育てられた現代日本人こそ、自国の文化、即ち日本とは何たるかを知らずに、否、知ろうともせずにいるのが、同胞として誠に情けなき現状である。流石にお国の政治家連も斯かる為体ていたらくを見るに見兼ねてか、或いは過去の埋め合わせの積もりか、教育基本法改正案が二〇〇六年に成立、二〇〇七年から施行される事と相為った。其処には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際平和と発展に寄与する態度を養うこと」と記されている。所謂「愛国心」条項である。詰まりこれは、伝統と文化そして愛国心は子供達に教育現場で「教授」して行かねば滅び行く定めに在るという事である。何とも情けなき事ではないか。それから十五年、教育現場に片足を踏み入れる筆者が見るに、その効果は依然として感じられない。抑々教師連に愛国心が感じられない。全く情けなき事ではないか。日本人は日本への愛を叫ぶ事を恥じている。そして自ら日本の歴史と伝統をけがして行く。全く憂国の士と為らざるを得ぬ時代である。好い加減この愚かさに気付いても良さそうなものだが、そろそろこの反動が起こっても良さそうなものだが、一向に人々は自己を犠牲にしない、放棄もしない、しかし保身の術には長けて、名誉を守る矜持きょうじ心に欠けた、ただ無心に「快適さ」と「便利さ」を求める退廃した日常生活を送るのみ。西洋の、己が幸福を人生の最大目標に据える、義務と責任を発現せぬ悪しき方の個人主義が日本人の精神を狂わせ腐敗せしめた。「人生において最初の他人は己の母親」などという言葉は、我儘で、他人を否認し、自我のみを求める、未経験で浅薄な若者の耳には心地良く響く事であろう。恥ずかしいのは常の事だが、実は私もその一人であった。しかし日本人にとってこの言葉はわざわい以上の何物でもなかった。無論私は既に立ち直ったが、こういった考えが、他人への不信、己れへの慢心、いては親や先祖への忘恩、そして神々に対する不敬へと導いた。元来日本人は礼儀が人間を作る事を知るからこそ昔から礼を重んじる民族であって、「無礼も個性」などと言われるように為ればもう終いである。「自らの主体性をむなしゅうする」という日本伝来の知恵が無くなり、はた迷惑なとんがった自我を穏和に抑制する事が出来ず、一種の神経病の如く同一性アイデンティティを振り回す人々を見ない日は無い。しかし哀しい哉、この傾向が、自分の事しか考えていないにもかかわらず、それがかえって自分で自分を認められぬ由々しき事態を引き起こし、他人に認めて貰う事でしか自己存在を確認出来ない、所謂いわゆる「承認欲求」なる病んだ心を生み出した。そしてその思いを一瞬でも満たそうとするのであろうか、せわしなく動く大都市圏の人々を混乱に陥れる「鉄道自殺」をする者も後を絶たない。今、「他人の為に死ぬ事が出来る」「日本の為に死ぬ事が出来る」と言える者がこの国に何人居ようか。何も彼もが計算尽くの、目先の利益に執着する物質主義的な遣り方に染まり、戦時の「一億総玉砕」という恐ろしい程に気高い永久不滅の精神は死に、一秒でも長い寿命をのみ求める不毛な卑しい精神が蔓延はびこった・・・ しかしそんな事は既に一部の有識者達が雄弁に説いている事で、今私が殊更にあげつらう必要も無かろう。第一無名の私が声を荒げて何事か言い立てたとて世間の耳には響かない。結局鼻であしらわれるのみ、叫んだ方が一層孤独に追い込まれるのみ。日本純文学最後の巨頭たる三島由紀夫も死後半世紀足らずで「誰も読まぬ」と同義の「古典」扱いされ、その命懸けの末期の訴えでさえ健康食品や最新機器、資産運用の宣伝文句に搔き消される、今はそんな時代なのだ。これでは僅かにも国家や民族を思う者なら、ワインにおいて テロワール や土着品種を味わう者なら、厭世の情も湧こうというものである。大いに思う者であれば虚無主義ニヒリズムに陥るのもむべなるかな畢竟ひっきょう、過熟した果実が凋落するように、爛熟した文明は堕落する定めにあるのだ。しかし私は、文明の内に宿る文化という種は腐敗せぬものと信じる。それでも尚私は、我々の魂は刀の様に徳で光り輝いているのだと信じる。只それを磨かずにいるが故に錆び付いているだけなのだ。この永らくこびり付いた「身から出た錆」を払拭し、再び心の刀を研ぎ澄ましたその時にこそ、一点の曇り無き鏡の如く澄んだやいばの内に純潔な魂がきらめいて、日のもとあまねく世界が照り渡るのを見るであろう。

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 私は、WEB社会による「文化の生温なまぬるい平均化」に警笛を鳴らしながら、「一国の文化全体を毒にも薬にも為らない物にしてしまう」国際化の姿への反省を喚起しつつ、我が「國酒」たる日本酒に題材を求めるこの先の記事が日本人のみならず非日本人に日本文化を知る一つの「参考書」の役割を果たせば、我が意は果たせたものとする者である。書物・映像・試飲会・セミナー・ワイナリー見学・資格・講師などを通し、様々なアプローチからワインについての知識を収集し、感覚し、思考し、それでも尚新しい何かを探し続けた結果、私が辿り着いた所は日本酒であった。人間が探した末に到達するものは「根」なのである。今の日本人は自分達の起源について知る事が余りに少ない。無論それは終戦後GHQにより諸悪の根源として民族・愛国主義を否定され、固有文化を制限された事に因るだろう。日本人の魂の拠り所であるべき古事記は義務教育から外され、絢爛けんらんたる文体を誇る古典文学は唯の受験科目として忌み嫌われ、その豊かな感性を読み取ろうとする者は余りに少ない。自らの系譜・神話・伝説・歌謡を失った民族は滅びる定めにある。それは容易に思い至る真実である。四大古典芸能である能・狂言・歌舞伎・文楽について説明出来る国民がほとんど居ない状況に、果ては建国精神を忘れ、2.11「建国記念の日(※1)」に建国を祝う国民が殆ど居ない状況に、在日異邦人は唯々啞然とするばかりであろう。しかし戦前と相変わらずにいるものが在る。四季折々の行事、冠婚葬祭における神人との交際、衣食住に生きる行儀作法、それら風俗の内には常に酒が瑞々しい音を立てて流れている。この酒精の流れは体内の血流に乗り、五臓六腑に沁み渡り、やがては精神に至り、飲み手にその国の固有思想をじっくり味わわせてくれるものである。「古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができるからである。それゆえ、すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持主である」という坂口謹一郎氏の言葉を我々は肝に銘じて置かねばならない。酒は文化の精髄エッセンスである。ここ五十年弱、日本酒国内消費量は減少の一途を辿っている。清酒という源泉が涸れ果てる時、日本文化に取り返しの付かない喪失が遣って来る。しかし弥生時代の太古より沁み込んでいる田園という日本人の原風景は、日本人の意識からそう容易たやすく消し去られるものではない。青空の下鮮やかに映える深緑しんりょく絨毯じゅうたんの如き稲葉の情景に、大和魂は必ず帰って行くのである。──いつでも帰れる場所があるという安心感。十年前、希臘ギリシアの地に居てふと日の丸の旗がテレヴィジョンに映し出された時の安心感。幾ら西洋思想を並べ立てたところで所詮は西洋気触かぶれ。日本で生まれ育った以上、結局帰る所は日本しかないのだ。そしてその帰る時期は各々おのおの勝手に決めるが好い。重ねて言うが、結局帰る所は日本しかないのだ。無論帰らない選択肢もある。しかし帰ったあかつきには、その者は和魂洋才の徒として、大小問わず何事か成すであろう。日本人の誇りと共に胸を張り、世界を見据えている事であろう。

 ※1 現存する世界最古の国家たる日本、その建国は最も短く見積もっても千八百年前、妥当なところでも二千年以上前であろうと考えられている。次いでデンマークの千数十年、三番目はイギリスの九百数十年前である。なお国連常任理事国の建国年を見ると、アメリカは1776年、フランスは1789年、中国は1949年、ロシアは1991年とイギリスを除き歴史は浅い

 ところで先に国際化の弊害について述べたが、一方で国際化の進展は異文化との遭遇をもたらす。即ち自国の文化の再認識を要求する。同国人同士なら当然の事が、異国人には一から説明しなければならぬ状況が生じる為である。そして説明は冗長であってはならず、簡潔でなければならない。簡潔な説明には深い理解が要る。深い理解には多くの知識と慎重な考察が求められる。正直「稲作文化の生んだ偉大な華」である清酒に関して私はまだまだ学習の足らぬ身であり、J.S.A. SAKE DIPLOMAなる呼称資格も昨年2020年に取得したばかりの、それ迄は葡萄酒を一偏に飲む者であった為、上記の如き知識と考察を経た熟練者の様な巧みに論ずる能力が有るとは到底思えない。しかし日本文化への情熱と自己確立への焦燥が私の心を搔き立てるのである。何より私は常に書く事で理解して来た人間である。そして日本語が私の母国語であり、日本文化を真に表現出来る唯一の言語である(※2)。国外に受け入れられてから初めて国内で受け入れられるという事がこの国に屢々しばしば起こる事もまた事実だが、英語では日本文化の粋を表現し切れぬし、たとえそれが出来たと仮定して、私にはそうする事が出来る程の英語を使いこなす能力も無い。機械の翻訳機能は日々向上しているようだが、矢張りまだ機械には機械の頭しかないため機械的な表現しか出来ず、原文に込められた微妙な意味合い、人情が感じる味わいを自在に表現するには程遠い。結局科学一偏の人間が造り出す限り、言葉の神性、「言霊ことだま」は、人工知能には理解出来まい。しかしこの場は人の魂に訴える文学ではなく日常の記録や情報を公表するブログである。以上の文面は重い苛立ちを籠めた堅いものと相成ったが、次稿からは人が読み易く機械が訳し易い言葉で、しかし或る程度の品と格を文章に持たせながらも勿論楽しい調子を維持し、人に無害どころか有益な奉仕サーヴィス精神を以て書き進める所存である。

 ※2 例えば、KojiSyubo酒母Moromiといった酒造用語は英単語一語では正確に表現出来ない。Syoyu醤油Miso味噌Dashi出汁 も其々 Soy-sauce や Soybean paste、Fish stock と表しても違和感が残る。したがってこうした微妙なニュアンスを持つ言葉は、その概念を英語で理解して貰い、Umami旨味Sushi寿司 の様に、使う場合はそのまま日本語で表現して貰う方が良いのではないのか。我々日本人は外来語を積極的に取り入れて来たが、もはや日本語も積極的に英語に取り入れられても良かろう。国際語たる英語に日本語が組み込まれ、且つその語意が正しく理解される事が、和食を含む全ての日本文化の国際化への道なのではなかろうか

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