菩提酛

 この酛取り法には様々な名称があり、飯を水に漬けて乳酸発酵させるので「漬け酛」、この漬け水が酒母造りには不可欠なので「水酛」(明治期の呼び名)、この際に笊籬いかきを使うので「笊籬酛」、又この酛造りは主として温暖季節の旧七~九月の秋に行われるので「菊元きくもと」、更にこの時期は残暑が厳しく笠を被って往来する時節であったので「被元かぶりもと」とも称された。(立秋頃より七、八月の残暑厳しい時節に仕込まれる早造りの新酒は「菩提酒」とも呼ばれた)

 15世紀室町時代の酒母製造法(※1)で、奈良市興福寺大乗院の末寺、菩提山正暦寺しょうりゃくじで確立(※2)、諸白もろはく 造り(当時は片白かたはくが一般的)、一段仕込み(※4)で「菩提泉」と呼ばれ、又「山樽やまたる」「南樽なんたる」「南酒なんしゅ」「奈良酒」として、当時の支配階級の間で最も愛好された酒の一つであった。室町幕府九代将軍義尚は次の様に激賞した、「酒に好悪有り、興福寺より進上の酒もっとも可なり」(『蔭涼軒日録おんりょうけんにちろく』)(※5)。そしてこの諸白酒の元祖である「近代絶美なる酒」は大きな収益を上げ、本寺の大乗院の有力な財源と為った。しかし栄枯盛衰は世の常、名を馳せた菩提泉も戦国時代末期に為ると伊丹や池田という企業化された新興酒造地との競合に勝てず、次第にその姿を消して行った。

 ※1 生米の1割を炊き、それを残り9割の生米に埋めて加水。3日程で炊いた米から溶け出す養分により乳酸菌が増え酸性となり、酵母も増えて泡が発生。ざるで漉し、生の米は蒸し、改めて糀と先の濾過した、甘味と共に適当の酸味と 渋み を伴う乳酸酸性水「そやし水」と蒸米を混ぜて仕込む(長時間高温度の水に浸すと酵母の発育に必要な米粒中の無機養分ミネラルが多量に溶出するが、この酛取り法においては酸性水をそのまま仕込み水として使用する為、結局養分は損失しない)。言わば酸度を高めて安全に醸造する特異な製法で、柔らかい口当たりと、独特の綺麗で確りとした酸、また温暖季節に仕込む事から糀を多用する事により、良く溶けた米からの 旨味 も十分に含んでいる為、搾り立てでも黄金色をしている。乳酸は温める事で味わい深く為る事もあり、菩提酛造りの酒は抜栓後も常温保管すると旨味が増して行く事が多い。また炭 濾過 をしていない物は熟成と共に風味に深みが増し、色付きも進む。冷やも良いが燗に浸けるとより味わい深く為る。菩提酛は人工乳酸を加えて安定させる 速醸酛 が開発される遙か前の製法である為、天然の乳酸菌を育てた酒母で、生酛 の元祖ともいうべきもの(但し生酛は所謂「」を使用するのに対し、菩提酛では乳酸発酵させた「そやし水」を使用する。因みに、乳酸は糀の糖化力を阻害する事が少なく、抗菌力でも他の酸類より優れている。無論、灘の生酛への対抗として江田鎌治郎氏により1910年に開発された速醸酛は、ご本人が「生酛造りの要諦は酸っぱくなること」と仰ったように生酛から発案されたものであるが故、現在約九割のシェアを占める、温暖な季節でも安全に行える速醸酛は最も原始的な酒母製造法の菩提酛を現代風に置き換えたものでもある)

 ※2 この寺では鎮守や天部の仏へ献上する酒を、僧兵という武力によって領有した荘園から上がる諸国の年貢米を用いて自家製造していた(現代人は悪徳として飲酒を戒める寺で酒造されていたと聞くと奇異な印象を受けるが、神仏習合の中、境内の神社で使う御神酒おみきの為に酒造りを行う寺は少なくなかった。加えて中世寺院は貢納余剰米や酒甕を置くのに都合の良い広大な僧坊があり、渓谷を流れる清純な仕込み水に恵まれ、酒造には非常に便利な場所であった)。寺で造られた酒は僧坊酒そうぼうしゅと言うが、遣隋使や遣唐使に為った留学僧などによって持ち帰られた確かな醸造技術を継承した僧侶達によって醸されていた事実(※3)は、ブルゴーニュ地方のワインが修道士によって発展した歴史を想起させる。尚ブルゴーニュにおいては、葡萄栽培者が死亡した時や十字軍に出発する時に畑を寄進したので、キリストの血としてのみならずこの世の贅沢と快適さを味わう物として、教会はワインと関係するように為った(ベネディクト派は寄進によって畑を広げ、其処は平坦な土地ゆえ村名クラスが多く、対しシトー派は斜面の土地を開墾して畑を広げ、土の流れを防ぐため石垣Closで囲んだ其処はグランクリュとして存続している)。当時葡萄栽培やワイン醸造技術の向上手段はラテン語のテキストのみであり、修道士のみがそれを読む能力が有った。それ故、曾て修道院は畑の手入れや剪定、摘みなど、ワイン造りの学校的存在だった。修道士は「神の前ではどんなに立派でも立派過ぎる事は無い」という完璧主義の下、最大の情熱を注いだ。清廉潔白と思想的純粋さを求めたシトー派の努力がブルゴーニュを傑出なものにしたと言えよう(対しボルドーは始めから営利目的)

 ※3 最盛期は16世紀。奈良では興福寺の諸塔頭、菩提山正暦寺、中川寺、河内では天野山金剛寺、観音寺、他には近江の百済寺、越前の豊原寺などが有名だった

 ※4 これが母体と為り、二段掛け(14世紀『御酒之日記』)、三段掛け(15世紀『多聞院日記』)と発展して行く。言わば、菩提酛は現代清酒の原点である。尚、一回で仕込みを終わらせようとすると酒母からの酵母は10分の1以下に希釈され、再び上限密度まで酵母が増殖するのに長時間掛かり、そしてその間に雑菌が増殖して酒質に重大な影響を及ぼし得る。極端な場合は腐造に至る。詰まり、一段仕込みより二段の方が、また二段よりも三段仕込みの方が、即ち逐次仕込み原料の量を増やして行くと、酒母の酸が一度に薄められず、酵母が醪の中で調子良く繁殖し、他の雑菌に対して圧倒的多数を保つ事で発酵が安全且つ順調に進む結果、グルコースなどの糖分やデキストリンなどの多糖類が多い、エキス分に満ちた濃い味の酒が出来る(しかしながら、もし酒母が強くて純であれば必ずしも三回に仕込む必要は無く、一回乃至ないし二回に仕込んでも差し支えないとも)。又、段掛け(分割仕込み)のもう一つの重要な役割は醪の発酵力の制御で、初添・仲添・留添の配分を変化させる事で前急に発酵させるか(淡麗傾向に為る)、じっくりと発酵させるかを調整出来る事である

 ※5 一方、京都の酒は「米・水もきわめて良好であるが、できた酒は甘すぎる」という酷評があった。因みに、室町時代(1392~1573)では著名な酒は銘柄で呼ばれていたが、それは他の酒との差別化および宣伝の為であった。代表例は京都の柳酒屋(或いは中興酒屋)の「柳酒」(これが先駆け且つ当時最高評価で『蔭涼軒日録』に拠れば柳酒の古酒は他の古酒の1.7倍、新酒は1.5倍の高値で取り引きされ、公家らの贈答品として喜ばれた銘酒の代名詞的存在。当時の酒税の二割以上を納めていた)、河内国(大阪府南東部)の天野山金剛寺が造る「天野酒」(豊臣秀吉が銘酒として朱印状を下付〈金剛寺文書に拠ると「念をいれつめ候て」とか「情を入るべきこと専一なり」とか言って醸造に専念する事を命じたのだとか〉、現在大阪の西條合資会社による復元酒〈※6〉在り)、筑前博多の再製酒「練貫ねりぬき酒」(菩提酛法を応用した酒造法)、他には加賀の菊酒(石川県)、伊豆の江川酒(静岡県)、豊後の麻地酒(大分県)、そして僧坊酒である南都(奈良)の菩提山正暦寺の「菩提泉(菩提山酒)」など、『毛吹草』には二十以上の諸国名産酒が挙げられている。余談だが、京都の酒屋は態々わざわざ公家や高僧に頼んで和歌から取った銘を付けて貰ったといい、酒屋重衡しげひらは一件で「舞鶴まいつる」「細石さざれいし」「御手洗みたらし」の三銘柄を持っていた。そしてこの「細石」の名は「君か代ハちよにやちよに細石のいはほとなりてこけのむすまて」(『古今和歌集』)から取られた。その後これが国歌として非公式ながら成立するのは1880年、正式に認められたのは1999年の事である

 ※6 曾ての銘酒の再現は非常に興味深い試みであるが、当時の米など原料の質を考慮すると、果たして忠実に再現出来るのかという疑問が湧かざるを得ない。それは、たとえ私がどれほど侍に憧れてその生き様を再現しようとして見ても、し外見は何とか取り繕えようと、少しでも現代思想に染まってしまった以上この染みは完全には消し去れず、その精神までは真に粋に体得し得ないのと同じである

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 平成に復活、同寺で仕込んだ酒母を蔵人が持ち帰り純米酒を醸造している。何を持って「平成の菩提」とするかの定義は次の七点(醸造タイムス2000年4月28日)

・酒母は正暦時において製造する事

・酒母の製造過程で生米を使用する事

・乳酸は絶対に添加せず、そやし水を使う事

・菩提山正暦寺由来の、奈良県工業技術センターで分離した正暦寺乳酸菌を使う事

・育種改良した正暦寺酵母菌を使う事

・寺領の米と水を使う事(菩提仙川の渓水は「汲みて見よ るりのみつぼの薬師水 諸病をのぞく 深きちからを」と歌われた)

・最適な糀菌を使う事

 そして「奈良県菩提もとによる清酒製造研究会」は、「大和酒の地位向上と復権」及び「菩提酛による製造は、大和酒の伝統を生かし、かつ酒質のレベルアップを図ること」を目的とし、以下の様な心意気を述べておられる──「遠い数百年も昔の酒造技術や、酒造り人の苦労に思いを馳せる時、ただ古い文献を集めて酒造の歴史・技術を検証することのみに終わらず、先人の知恵を現代の酒造りに生かし、未来へと継承することが私たちの責務ではないか、と思います。今この奈良の地で酒造りを生業とできることに感謝し、奈良であるからこそ私たち会員は、この重責を全うしなければならないのです。なぜなら、奈良は清酒の発祥の地であるからです。」

お勧めの一本

神鷹 水酛仕込み 純米酒(精米歩合70%、兵庫県産米100%)、Alc15%、きょうかい6号酵母、日本酒度-6、酸度2.2、アミノ酸度2.5

 濃いゴールドの外観(炭 濾過 控えめと表記有)、香り立ちは高めでふくよか:メイラード反応 による熟成 アロマ(メープルシロップ、キャラメル、べっ甲飴、味醂、藁、雷おこし、香木、ごぼう、ナッツ、チョコレート、薄口醤油、ベーコン、シナモン)が主体で、もち米の様な香りも(ねてはいず、製造年月より数ヶ月程ゆえ蔵内熟成させた物と思われる。菩提酛のテイスティングコメントの中には「良く寝かせた梅酒の様」という表現もあれば、実際数年貯蔵後に瓶詰め出荷する商品もあるようです)

 力強い第一印象、ふくよかな甘味、しかしシャープな酸味と苦味を伴う 旨味 が確りとした骨格を作ると共に爽やかさも添えながら終盤まで引き続く。マデイラを思わせるカラメル的な余韻は非常に長く心地良い。熟成感のある大らかな甘味と旨味、そして何よりも酸味を活かす為にも瓢箪型 グラス

・20℃:ミルクチョコレートを溶かしたような品のある甘さに為る

・30℃:酸味と苦味、渋み が甘味に追い付き調和する。最良温度

・35℃:悪くはないが、やや味が飛んで取り留めの無さが出る

 日本酒度-6と数字上は甘味寄りだが、そやし水由来の明確な酸がある為、他の一般清酒以上に料理全般に合い易い。兵庫県の蔵元さんで、奈良より水酛仕込みを学んでいらっしゃったという話。この質でこの価格は驚愕の一言