第八瓶 マルゴー事件

ようやく高い金を払って手に入れたワインを飲む日が来た!」

 二十回目の結婚記念日を迎えたH夫妻。夫は愛らしい妻の為にと、毎月の雀の涙ほどの小遣いから昼食も抜いて臍繰へそくって置いた小金で、結婚年のヴィンテージボルドー、シャトー・マルゴーを密かに購入していたのだ、決して自分が飲みたいからではなく。

「何年も熟成させてやっと飲み頃を迎えたワインを開ける時が来た!」

 自分の薄給に耐える為、家計を切り詰め何とか遣り繰りする妻も今回ばかりは許してくれるだろう、決して自分一人で飲み干そうという訳ではないのだから。

 妻は忙しそうに夕食の支度をしている。そこで夫も台所へ向かった。記念日くらいは手伝いをしようというのだろうか。殊勝な事である。すると夫は包丁を扱う妻の背中を恐る恐る通り過ぎ、台所奥で遠慮がちに佇む小型のワインセラーに向かった。妻は何も言わない。きっと料理に集中しているのだろう。夫はさながら宗教儀式よろしく、澱が舞わないようセラーからボトルを神像の様に静かに引き出し、首がしっかりと上に向く角度が取れるようリトーを敷いた純銀のパニエに恭しく安置し、両手でそっと抱きかかえるようにテーブルへと運んで行った。妻をこの様に大切に扱ったのは、二十年前のこの日くらいであろうか。背後から冷たい視線が向けられているような気がするが、気のせいだろう。オリーヴの木目が美しいシャトー・ラギオールの滑らかな取っ手の感触を味わいながら、刃で鉛造りの キャプシュル に半周と逆半周の二回切り込みを入れた後、更に縦断してから切っ先を引っ掛けて取り除き、別に用意していたリトーで瓶口を拭いた。そして九巻き有る螺旋状のスクリューをコルクに慎重にじ込んでいく。六巻き入れた。コルクの寿命は二十五から三十年、やや柔らかい脆さを感じたものの、まだ弾力を保っている良い状態である。念の為に用意した二股のプロング式コルク抜き、所謂いわゆる「バトラーズ・フレンド」の出番は無さそうだ。きっと同じ所作を幾度となく繰り返して来たのだろう。既に体に染み付いているかのように一連の所作は澱み無く進められた。が、扱うワインの命の重みであろうか、一つ誤れば全て終い。ゆっくりと、しかし迷い無く正確かつ的確に動作する、数々の 器具 に囲まれたその姿は、あたかも細心の注意を払い手術する外科医の様にも見えた。ソムリエナイフのフックを瓶口の縁に引っ掛け、梃子の原理で一センチほど引き上げた。矢張り砕ける心配は無い。そして更に二巻き差し込んで残りを引き上げ、コルクを握って静かに上から空気を入れて引き抜いた。

「シュッ」

 ワインが深呼吸した。二十年振りに外の新鮮な空気を吸い込んだのだ。コルクの匂いを確かめる。底に染み込んだやや涸れたようなベリー系の香りと樫の甘いヴァニラの香りが鼻をくすぐる。かびも見当たらず、ブショネの心配も無さそうだ。長年ワインに触れ、血の様な深紅に染まったコルクの片側、それと同じ年月の妻との触れ合い。過去の記憶が走馬灯の様に頭をぎり、一瞬夫は蒼褪めた。それが何故なのか、他人には知る由もない。二人は世間では人も羨むおしどり夫婦として知られているのだから。しかし案ずる勿れ。抜栓するだけで部屋に広がる上等なワインの香りが気付けとなり、どうやら血気が戻ったようだ。意も新たに、コルクをスクリューから手際良く回して抜いて小洒落た貝殻形の小皿に置き、ナイフを畳んでポケットに仕舞った。

 それから夫は神妙な面持おももちで蠟燭に火を灯した。これは妻の為のロマンティックな演出であろうか。いや、そうではなさそうだ。着火時の硫黄臭と硝煙はシーリングファンの風と共に消え去った。少しのコルクの欠片をリトーで拭い取った後、同じ角度を維持したまま注意深くワインボトルをパニエから引き出し、右手でボトルの底を持ち直した。そして、揺らめく火に照らされて虹色に煌めく、アイリッシュカットのクリスタル製デカンターを左手で握り締め、ボトルの怒り肩を蠟燭の明かりに照らしながら音を立てずにそっとワインを注ぎ入れた。別に妻の地獄耳が気になるからではない。注ぐ時に音がするという事は液体と気体が混ざる事、即ち酸化である。まだ若い年、或いは偉大なヴィンテージならより風味を開かせる為には良かったろう。しかし予算の都合上残念ながら平年並みの ヴィンテージ であれば、余計な空気接触は香味を飛ばし逆効果になる。二十年分の澱を取り除くだけで良い。デカンターのリンスも、ワインの状態確認のテイスティングもしなかった。デカンターは事前に精製水で濯ぎ乾燥させており手入れは万全、そして一人で先に味見するとは無礼千万、ワインと共に重ねて来た歳月を妻と同時に味わいたかったからだ。橙色の炎を背後に、雲状に揺蕩たゆたう澱が首元にまで流れて来るのが見えた。一滴でも惜しむ気持ちはあれど、余計な雑味が入っては台無しである。潔く デカンタージュ を止め、ボトルに残った液量を見ると、およそ全量の九分の一であろうか、一杯の100mL程もない。上出来である。「大体十万円で買ったからその九分の一は一万一千百十一円…」などというせせこましい料簡も持たず、夫はわだかまりの無い大らかな心と、ひと仕事終えた後に見られるような晴れ晴れしい表情で、妻のいる台所へと向かった。今度こそ手伝おうというのだ。しかし無念。どれ程の時が先の神聖な作業に費やされたのか、既に料理は完成していたのである。せめてもと、申し訳なさそうに盛り付けられた皿をテーブルへと運ぶ夫。抜栓及びデカンタージュ時の確信に満ちた所作とは違い、何というぎこちなさである事か。それを尻目に温白色の蛍光灯の下、木製テーブルの上で誇り高く赤く輝くデカンターとワインボトルに切れ長の目を向ける妻。

「ど、どうだいR子、君も聞いた事くらいあるだろう。シャトー・マルゴーだよ。しかも二人にとっての大切な年のものだ」

「ああそれ?『失楽園』で心中シーンに使われたやつでしょ。覚えているわ。茸とベーコンのサラダに、鴨とクレソンの小鍋。あら偶然、今晩のメニューとおんなじ。あと青酸カリがあれば完璧ね」

 いささか緊張気味の夫とは対照的に、妻は恐ろしいほど冷静至極である。そして何程の事でもないと言うように、さっと食卓の椅子に腰掛けた。豹を思わせるしなやかに伸びた背筋はいつもの様に美しかった。そしてこの妻の反応を良しとした夫に恐れるものは何も無くなった。

「怒れる時のR子は何も言わずにワインをキッチン排水溝に流すか、ワインの空き瓶を投げて来る筈だ。長い付き合いだ。あいつの事は分かっている。しかしこの献立とワインの相性は見事だろう。カベルネ・ソーヴィニョンのややヴェジタルな印象とクレソンの爽やかさ、樽由来のロースト香とベーコンの焦げた香ばしさ、メルローと瓶熟成によるスーボワやジビエ或いはシヴェの様なセイヴォリーな味わいが、茸の土っぽさや鴨の野性味と 旨味 に同調して見事なマリアージュを生む筈だ」

 夫は男らしくデカンターを鷲摑みにし、フラミンゴの脚の様に細く長いステムの、良く磨かれた二脚の大振りの瓜実うりざねグラス に、赤銅色に輝く、魂の秘密に光を当てる神々しい葡萄の血液を陶酔の面持おももちで注ぎ入れた。フェネロンが言ったように、彼にとっても「ワインを飲む事、それは神を讃える事」なのである。ワインは当初から祭式など宗教的用途と結び付けられていたのだ、何の不思議があろう。真紅の果汁がけがれない酒杯を満たす程に彼の心も満たされていった。薔薇色の液体が透き通ったボウルの壁面を伝い流れ落ち、瑞々しい音を立てて泡立ち空気に触れ、えも言われぬ芳醇な香りが二人の夜を包み込んだ。さあ、ワインはそそがれた。

二人「乾杯」

(グラスの音)「チン」

(妻の喉の音)「ゴクリゴクリ」

「プハーッ! お代わり」

──ワイン狂の夫は怒りか、それとも恐れか、或いはその両方かに震える手でボトルの方を握り、どす黒い液体をついでやったとさ…

 これは現代における珍しくない悲劇であります。二十年も一つ屋根の下に住みながら、互いの趣味を分かり合えない夫婦の話は彼方此方あちこちで耳にします。定めしこの夫は有名ワインであれば、お酒に疎い妻にもワインの素晴らしさが、自分の趣味が分かって貰えると信じていたのでしょう。しかし、極めて限られた地区で限られた量のみ造られる、1855年のメドック格付け第一級シャトー・マルゴーでさえ妻の前では形無し、彼女には世界中で大量生産されている、いつでもどこでも同じ味のコカ・コーラの方が似合うのだと思い知らされたのであります。

 前置きが長くなりました。陳腐な三流小説の真似事をして何を言いたかったのかと申しますと、「こんな飲まれ方をしてはワインが余りに可哀そうではありませんか」という事です(勿論健気な夫もです)。たとえ焜炉こんろの熱を浴びてどれほど喉が渇いていたとしても、いいえ、たとえ二日の間サハラ砂漠を彷徨さまよい、死ぬほど喉が渇いていたとしても! では先ずどうするか? という事でテイスティングをして、あのシャトー・マルゴーと対話をするのです!

本日の箴言

 芸術品と見なされる最高級ワイン。しかし絵画とは異なり一旦コルクを抜けばその命は短時間で終わる。それでも忘れ得ぬ印象を人の心に残す。

『世界一美しいボルドーの秘密』(ドキュメンタリー映画、原題:Red Obsession)

記念日の一本

Château Margaux 1994

 優美で柔らか、繊細さと精妙な甘い香りで「最も女性的」と称されるマルゴー村。それはメドック地区でも表土が最も薄く、その下の水捌けの良い砂利層が厚い為、葡萄自体は安定するものの、水分を求めて深く地下7m程まで根を下ろす事があり、土中深くの石灰岩層にまで根が届いた結果、ワインは生まれた時からタンニンがシルキーで非常に上品になるからである。そしてその頂点に君臨するのが、このシャトー・マルゴーである。

 貴さ、雅さ、あでやかさ、しなやかさ、優しさ、強さ、華やかさ、大らかさ… その全てに調和が取れた、古典的な女性美の極み。おお、我が憧れの人よ、貴女の正体はヘレネであった!〈2008年10月〉

自分よりも遙かに偉大なワインを表現しようとすると、自分が虚しくなるだけです( ;∀;)

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