第十六瓶 華麗なる賭け

 「──あと一つ、これさえ当てれば僕の勝ちだ。この淡い黄金色、十分に溶け込んで永続的に立ち上がる、コルドン状のクリーミーな泡立ちは疑いようも無く 瓶内二次発酵 で長期の シュール・リー を経ている。少なくとも三年は瓶内熟成をしている筈。それは顕著なトースト香からも明らかだ。レゼルヴ・ワインを多めに、恐らく三割程ブレンドしているな。蜂蜜やアーモンド、そしてこの焼き林檎やスパイスの香りが退廃的だ。強いが優美で生き生きとしながらも複雑な味わい、痛い程に切れの良いクリスピーな酸味と鮮やかな果実味、白亜質土壌を感じさせる ミネラル、これはシャンパーニュか? アルコール度は…もう痛覚が麻痺して分からない。ブリュットスタイル、品種はシャルドネが多めでピノの厚みとムニエの丸みがその繊細さを補完している。それにこのフィネス、そうだ、今度こそシャンパーニュだ。いや、既にフランスは出ている。待て、引っ掛けでまたフランスかも知れない。しかしこんな物が内のセラーにあったか? さては父さんめ、今日の勝負の為に新しいワインを仕入れたな…」

 創業四十七年の老舗「Y鮨」。古風なカウンターで八席、客の動きに目を配り気持ちを敏感に察しながら、会話を大切にして寿司を握る二代目親方は堂々たる恰幅で、如何にも職人という雰囲気を醸し出している。そして、どちらかと言えば一升瓶の方が似合いそうなその親方の提案で十二年前から扱い始めたワイン。実はこの親方、和食屋にワインという概念がまだ定着していない時代に、趣味が高じてソムリエの資格を取っていたのだ。付け場にしつらえたワインセラーには百種類以上の銘柄が揃っているが、この店の主役はスティルよりもスパークリング、中でもシャンパーニュとのペアリングには定評がある。ワインリストにはグラン・メゾンのノン・ヴィンテージからプレステージ物迄が、正に綺羅星の如く並んでいる。ガブリエル・ボヌール・シャネルやマリア・カラスが愛飲したクリュッグ、グレース・ケリーの心に適ったペリエ・ジュエ、単一の品種・産地・収穫年を誇示するサロン、1876年ロシア皇帝アレクサンドル2世の為に造られたルイ・ロデレールのクリスタル、驚くべきは、19世紀後半のフィロキセラ禍を生き延びたピノの老樹から生まれるボランジェの ヴィエイユ・ヴィーニュ・フランセーズといったマニア垂涎のボトル迄が載っている事だ。そして自他共に許すワイン通のJ太郎は、毎週末は必ずと言って良い程、同い年の親方の寿司と会話を楽しみに来店する、十年来の最も古い常連の一人である。

「Jさん、ちと一つ相談が有るんだけど…」

「炙ったトロに、大根と玉葱の磨り下ろしにポン酢を付けて濃くの有るヴィンテージ・シャンパーニュを合わせる、いやー、コレ最高だね!」

「Jさん、聞いてる?」

「シャリに染みる赤酢の強い甘味が、またシャンパーニュとの相性を一層高めるんだな!」

「Jさんってばよ!」

「何だい親方、大きな声出して。客が俺一人だから良いものの、誰か居たら店の評判を落としているところだぜ」

 時は新型コロナウィルスが猛威を振るう西暦二〇二〇年五月、政府が要請する国民の外出自粛で飲食業界は大打撃をこうむっていた。

「だからこうして面と向かってじっくり話が出来るんじゃねえか。で、その話ってのが今出前に行ってる大馬鹿息子の事でよ、俺等ももう直ぐ六十路むそじ、遅蒔きながら授かった二十九になるS男にしっかりとした後継ぎに為るよう仕込んで九年目、なのにあの野郎、いきなり後は継がねえなどかしやがった」

「それはまたどうしてだい?」

「けっ、あの大たわけのこんこんちきめが、三十路みそじを前に新しい事をしてぇとか言いやがって、全く信じられん奴だぜ」

「確かになぁ、この店はお客さんも付いてるし、親方の代で暖簾のれんを下げるのは職人として悲しい事だなぁ。俺もS男君がてっきり三代目に為るんだと思ってたのになぁ。親方が築き上げた暖簾に恥じぬ技術と味、そして接客も中々堂にって来たのになぁ」

「なぁに、まだまだ全然なっとらん、あの程度のもんではな。だが知っての通り、内は先代から家族経営で遣って来ただろぅ、息子が継がなけりゃあこのY鮨も終いだ」

「それは俺も困るな、親方が引退したら俺の唯一の楽しみも無くなっちまう」

「こっちも引かねえ、あっちも引かねえ。で行き着いた先が『賭け』って訳よ。俺が選んだワインを五つ全て当てられたら『好きにしろ』ってな。其処でJさんを男と見込んで、保証人も兼ねて審判として立ち会って欲しいんだ。家内には下らんと一蹴されちまってな。全く男が通すべき筋ってもんが分からねぇ奴だよ、ああ情けねぇ。だから頼む、こんな事を言えるのはあんたしか居ねぇんだ」

「俺が親方の頼みを断れる訳無いじゃないか、と言うか、親方には悪いが個人的に興味津々な話だ。目隠しって事だろ。ふむ、しかし勝ち目は有るのかい、S男君の嗅覚と味覚は神懸かってるぜ」

「だからこそ内にはあいつが必要だし、それに十八番おはこで負けたならあいつも潔く後を継ぐと認めるに違えねえ」

 確かにS男が板前に立ち始めてから、Y鮨が提供する組み合わせに一層磨きが掛かった事にJ太郎は気付いていた。

「寿司の風味を邪魔しないよう、シャンパーニュは若干低めの温度でお出しします」、「寿司には を効かせた物よりすっきりとした風味の物をお選び頂くと良いですよ。酒質がしっかりした物だと味わいが負けるネタもありますし」、「ほんのりとした甘味を持つセックで酢飯との相性を楽しんでみられてはどうですか」、「生牡蠣、アワビ、赤貝など貝類には白のシャンパーニュ、生魚の白身にはロゼ・シャンパーニュが合いますよ」、「ネタの臭みを抑える為に軽く炙ったり、付ける調味料にも凝ってみました。例えば白身には酒と鰹の出し汁で割った土佐醤油、だこには沖縄の苦味を抑えた塩を使うとか…」

 S男はお客を感動させる為に色々と趣向を凝らし、好評を博しても決して驕らず、「ひとえにお客様との会話が様々なアイデアを思い付かせるんです」と、謙虚な姿勢も崩さない好青年であった。常に提案はするが、その口調は押しつけがましさを少しも感じさせず、最終的には「お寿司とシャンパーニュの相性が好いのは当然ですので、好きなように楽しんで下さい」という姿勢が、客をゆっくりとくつろがせる雰囲気を生む。飽く迄「Y鮨では寿司が主役、ワインには脇を固めて貰う」と言う親方の信念も理解する立派な後継ぎだと、馴染み客の誰もが信じている筈だ。

「そういう事で宜しく頼むぜ。勝負は一週間後、Jさんがいつも来る時間に合わせるよ。どうせ客も来ねえし、その日は店を閉めるぜ。感謝の気持ちと言っちゃ何だが、今日は俺のおごりだ、遠慮無く遣ってくれ!」

 J太郎は「親方の余裕は何処から来るのか、何か秘策でもあるのか」といぶかしみながら、お言葉通り遠慮無く、スマートフォンを取り出して気に入りの音楽を流し始めた。「シャンパーニュと寿司とベートーヴェン」、この三位一体の内に彼はこの世の至福を見出していたのだ。其処迄はまだ可愛い方だった。そのあと親方が本当に「遠慮の無い奴だ」と思ったのは、J太郎が酔った勢いで付け場に押し入り、セラーで長年安眠していたフィリポナのクロ・デ・ゴワセ1989を叩き起こした事であった。親方は「人選を誤った」と、心の底から反省した…

 そして一週間後の同時刻、役者は揃い今正に決戦の火蓋が切られようとしていた。S男はやや緊張した面持ちで、一方親方は鷹揚な態度でカウンターの客席に座っている。そして上擦っているのか、そわそわと二人の後ろを行きつ戻りつしているJ太郎に顔を向け、おもむろに口を開いた。

「Jさん、付け場を通って奥の冷蔵庫を開けて見てくれ。下段の手前に五本、ワインが立っている。それを好きな順でS男に出して遣ってくれ。あと手間だが抜栓も頼むわ、事前に俺が開けても良かったんだが、まあ念には念を入れて、だ。少しの疑いも残さねえようにな」

 J太郎は待ってましたとばかりにいそいそと、寿司職人にとって神聖な板前を横切り、カウンターの照明が十分に届かない奥の暗がりの中、冷蔵庫の明かりに照らされて身構えているワイン達に一本一本お目通りした。そして密かに独りちた。

「親方も其処まで人が悪くはない、アイテムは五本全て泡、しかも其々違った個性の有る物ばかりだ。或いは親方はS男君を止める気が無いのか?」

「そしてS男、当てるのは生産国のみで構わん──」

「矢張り親方はこの勝負、S男君に譲る気だ」

「──但し、一つずつ出すから、それに一つずつ答えて行く事。要は一発勝負五連戦、外した時点でお前の負け、武士に二言は無いというやつだ」

「決めたらもう後戻りは出来ない、という事だな、親方」と奥から姿を見せないままJ太郎が言葉を付け足した。恐らく親方は「一度抜けたらY鮨に帰る事は断じて許さん」と言いたかったのだろう。

「望むところだよ、父さん。それで後腐れ無いならね」

 J太郎はコルクを抜く作業に入った。この発泡ワインの抜栓は何度やったか知れない。もう目を瞑っていても失敗する事は無い。既に彼の手は無意識の内に キャプシュル を剝ぎ、飛び出さないよう左の親指で王冠の上部からコルクを押さえつつ、右手でミュズレを六巻き回して緩めている。そして右手を瓶の上げ底に持ち替え、左手は変わらずに一式全て押さえた儘、瓶を回してコルクを瓶内気圧で持ち上げて行く。そしてコルクを傾けるようにして瓶との隙間から炭酸ガスを少しずつ抜いて行く。

「ス──…」

 この「淑女の溜め息」、何度聞いても飽きはしない。此処で直ぐにボトルを直立させると泡が吹きこぼれる事がある。最後まで注意を怠らない事だ。この一連の動作に掛かった時間は如何程か、せいぜい二十秒といったところか。そして彼はY鮨ご愛用、リーデルの卵型シャンパーニュ用 グラス に人数分注ぎ、二人の面前に持って行った。そして腕を伸ばして付け台の向こうの木製カウンターに其々置いた。グラスの底に付けられたレ-ザーの跡から無数の泡が美しい筋と為って立ち昇り、ピチピチと液面で弾けている。その様はまるで円形の舞台で軽やかに翼を広げて舞い踊る天使達を思わせた。

「さあ先ずは小手試しにこのワインからだ。S男君、当てて見給え」

 その時J太郎は付け台の向こうに居る二人を前に、板前から見る満席の状況をも想像しながらぐるりと見回し、一種異様な悪寒に襲われた。

「この風景はまるで別世界だ。二人の心情が手に取るように分かる。こんな風に寿司職人達は客の表情を見、そしてその心の中までをも見ているのか。それを思うと、自分の此れ見よがしの態度がおこがましく思えて仕方が無い。今後は頭勝ちな態度は改め、純粋に楽しむ心で寿司と向かい合おう…」

「綺麗で生き生きとした泡立ちですね。ただやや大きく直ぐに弾け、十分に溶け込んでいないようですので、瓶内二次発酵だとしてもシャンパーニュ程の瓶内熟成期間は経ていません。柑橘系や林檎のチャーミングな香りが主体ですが、其処にアーモンドの花が混じり、また土っぽさ、樟脳に似たフェンネルも感じます。これだけで答えは分かりましたが、念の為に味わいも見て置きます。矢張り香りから想像出来る通りのフレッシュな果実味がこのワインの魅力、そして後味に残るグレープフルーツ様の苦さ。パレリャーダの花やかさ、何よりマカベオの果実感とチャレッロの独特な芳香が良く表れたカヴァ、スペインです」

「正解、これは俺でも分かったかな。んん、暗雲をイメージさせるこの苦々しいゴムに殺虫剤の 匂い、明白だ。フルートグラスの方が適切だな」

「じゃあ次を宜しく、Jさん」

 J太郎は手ぶらで再び奥に姿を隠したと思ったら直ぐに黄金色の星々で煌めく液体を湛えた三脚のグラスを持って現れた。見事な手際の速さである。

「モノトーンな麦藁色をしています、長い熟成を経たのでしょうか。しかし泡立ちは健在でデリケート、これもトラディショナル方式でしょう。シトラスや花梨のドライフルーツ、蜂蜜、そして籠もりがちですが藁や松脂の様な香りも取れます。味わいは香り通り、シトラス系のフレッシュな酸の有る果実味を蜂蜜様の甘やかさがコーティングし、樹皮の苦味に近い独特なフレーヴァーが後半に掛けて濃くを与えます。そしてシャンパーニュのトーストとは異質の、酵母の自己分解によるスモーキーな風味も感じます。もう一度味わって見ますと、ピークを越え体力が衰えて酸化スピードが速いのか、蜜柑の果肉や熟れた林檎など、より潰れた果実の印象に変わり、ほんのりお醤油や鰹出しのニュアンスに加え、蜂蜜やナッツ、カラメルにヨード香など メイラード反応 の特徴がより強く現れます。恐らく店の売れ残り、品種はシュナン・ブラン、ヴーヴレィ、フランスですね」

「これも正解。親方、ヴーヴレィ、あんま出てないのかい? こんなに値段以上の質なのに」

「シュナン・ブランに興味の有るお客は中々いなくてな、処分だ、処分」

「俺だったら安めのシャンパーニュと答えちまうな。しかし泡立ちの強さがより穏やかだからクレマンの線も考えてしまう。確かに深みはやや欠けるが、うん旨い、流石『貧乏人のシャンパーニュ』!」

「おいおい、飲んでないで次を頼むよ」

「おっと合点承知の助だ」

 アルコールが入って来たからか、J太郎の動きに滑らかさが増した。体内に入ったアルコールはほぼ全て血管内に吸収されるが、炭酸ガスもまた真っ直ぐ血液に入り、その二酸化炭素を酸素と交換するため血行が早まり、アルコールと共に全身を巡る。泡物が忽ち人を好い気分にさせるのはその為である。

「泡立ちは非常に激しくクリーミー、檸檬よりも甘味が有り酸味が低めのマイヤーレモンや青林檎が若々しさを、ブリオッシュまで発展したイースト香が深みを、そして薄口醤油や新鮮な生姜の香りが複雑さを生んでいます。爽やかでシャープな、ジリジリとした酸はシャンパーニュ的ですが…軽めのミネラル、肉厚なマイヤーレモンのクリスプな風味が一貫するピュリニースタイル…しかし明るい太陽を良く浴びた果実味、そして炭酸ガスの抜けの早さ、これは良く造られたカリフォルニア、ソノマのカーネロスA.V.A.、答えはアメリカです」

「お見事、流石だね。このカリフォルニアの快晴を思わせる果実感と酸とミネラル、これもまた旨し。ただ確かにクリーミーな泡立ちは持続性も有るが、絶対量が少ないのか激し過ぎるのか、スワリングや時間経過で弱く為り易いな」

「S男、水を飲んで置け」

「またその話かい、父さん」

「何だい、何か訳ありかい?」

「はい、水は口内のリフレッシュには好いのですが、舌に膜を作ってしまい、又ワインの濃度も薄まります。加えて口内の水分量が増えてより酸っぱく感じてしまうのです。水を口にしないと余韻から前との違いが分かり易くもなります」

「へぇ、そうなのね」

「誰に似たんだか、こいつは人の言う事を聞きやしねぇんだ。さあ、四本目」

「あいあい、ちいとお待ちよ」

 アルコールが回って来たと見え、愈々いよいよJ太郎の身のこなしには剣道部時代の瞬発力が戻って来たようだ。

「グラデーションのあるやや濃いめのレモンイエロー、健全な若々しさが溢れるようで美しいです。繊細で強い発泡はツーンと鼻を刺激する程。果実主体の香りは洋梨、白桃、グレープフルーツ、レモンカード、そして白い花とパンジェントなスパイス香、仄かに白いパンの アロマ も感じます。スワリングしてみると温度がやや上がった為か、パイナップルキャンディも出て来ました。口に含むと、粒々とした泡の心地良い刺激の中で果実味が豊かに広がり、その内に穏やかな酸味と仄かな苦味が一貫します。ソフトなテクスチャーが味わいのバランスを引き立てます。第二アロマ主体のシャンパーニュとは違い、第一アロマがメインですので新世界の泡でしょうか? しかし透明感のある ミネラル によるフィネスは旧世界…」

「S男君、額から脂汗が出ているが、大丈夫かい?」

「ええ。仄かにアーモンド香、円い酸味、緩めのボディ、そしてやや高めのアルコールはシャンパーニュよりも温暖な場所。答えはフランチャコルタだ! ロンバルディア、イタリアです」

「ご明察! いやー、もう此処迄かと思ったが、大したもんだ! 俺なら復カリフォルニアと答えていただろうね。正直フランチャコルタには良い印象は無いんだが、このカデル・ボスコは素晴らしい。今迄試した中でも最上だ」

「S男、顔色が悪いぞ。もう止めにするか?」

「此処まで来て何を言うんだ、しかもそれでは僕の負けだ。さあJ太郎さん、最後をお願いします」

「お、おう…」

 皆様は「酸蝕さんしょく症」なるものをご存知だろうか。pH5.5以下で歯の成分であるリン酸カルシウムは歯のエナメル質から溶け始める為、長時間酸性の物を口内に入れて置くと、やがては冷たい物が染みたり、虫歯の様な痛みを伴う症状である。WSETの教科書には、ワインのpHは2.8~4.0(一般的に赤は3.4~3.6、白は3.0~3.2、序でに日本酒は4.2)とある。低いほど抗酸化・抗菌作用が高まり、照り・輝き・透明感をワインに齎す為、造り手は低pHを目指すという(低pHでは亜硫酸が良く働く為、添加量が少しで済むというメリットもある)。特に低いのはドイツのモーゼル、リースリングのカビネットクラスで、pH3.0以下。同様に冷涼地で造られるスパークリングワインの酸度が強いのは言うまでも無く(専門家に拠ると、炭酸は人の味覚に酸っぱく感じさせるが〈⇒参考:味わいの分析図 の触覚〉、弱酸の為pHには殆ど影響しないという)、今回のテイスティングの様に何も食べず、S男の様に水も口にしないのでは、これを患う者の歯には神経を付き抜ける激痛が走る。

「さあS男君、これで最後だ」

「(傍白)もう歯がきしんでキリキリ痛む。くそっ、堪えろ。──あと一つ、これさえ当てれば僕の勝ちだ。この淡い黄金色、十分に溶け込んで・・・」

 今迄の弁護士の様な雄弁振りが嘘であったかの如く、S男は一転、独り自分の魂の深淵を見詰める哲学者の様に目を閉じて黙り込み、眉間に皺を寄せ、最後のワインと激しい歯痛と闘っていた。もう彼の歯髄は酸という鋭利なやいば寸々ずたずたに切り裂かれ、これ以上ワインを口に出来る状態ではなかった。一口目の記憶を手繰たぐり寄せ、感覚ではなく思考と理論で生産国を当てるしかなかった。しかし実際は痛みで彼の頭脳は働かず、「今度こそシャンパーニュだ。いや、既にフランスは出ている。待て、引っ掛けで復フランスかも知れない…」が堂々巡りするだけであった。もうこう為ってしまっては他に思い付く所は無い。

「S男、答えは決まったか」

「・・・シャンパーニュ、フランスです」

 J太郎もまた何も言わず、ただボトルをS男の前に静かに立てた。「NYETIMBER PRODUCT OF ENGLAND」という文字が大きくラベルに記載されていた。マルチ・ヴィンテージの非常に素晴らしい泡だった。S男の分析は確かに的を射ていた。しかしpH3.0の酸度が彼にとどめを刺したのだ。彼の脳裏にイギリスという国は全く浮かばなかった。S男は敗北した…

 別れ際、店を出ると春の宵の涼やかな微風そよかぜが酔いに火照ほてったJ太郎の頰を優しく撫でた。そしてふと思い付いたように、見送る親方を振り向き尋ねてみた。

「ところで親方が負けていたら、S男君は寿司屋を辞めて一体何をする気だったんだい?」

「カレー屋だ」

 1568年、英国でワインに関する本が初めて世に出され、その筆者はウィリアム・ターナーというエリザベス女王の医者でありました。それから今日に至る迄、イギリス人はヨーロッパのワインについて最も多くの本を書いて来ました。「熱しにくいが冷めにくい」ロンドン市場、現在ワインの情報の七割はロンドンから発信されています。一方フランスの蔵元で醸造現場に入り込み、師の傍ら、腕まくり姿で働いて来たのがアメリカ人。しかし今、温暖化の影響でワイン生産地の北限が延長し、メキシコ暖流の影響も幾分受けて、イギリス人は自分達の国でも優れたワインを造れるという実力を証明しています。英国産発泡ワインは二十年程前から話題に上り始め、最近ではシャンパーニュとのブラインド対決で圧倒していると聞きます。しかしワイン産業においてイギリスは新天地、栽培や醸造規定はありますがフランスほど厳格なワイン法は無く、より限定された地区や区画の呼称制度もまだ存在しません。此処で思い出して頂きたいのが、親方の出した「当てるのは生産国のみ」という条件です。S男はこの言葉にもう少し多くの意を注ぐべきでした。イギリスワインの原料葡萄は、EUのAOP/PDOカテゴリーに属する最上級のクオリティ・ワインでも100%イングランドもしくはウェールズ産(※1)で、確かに粘土質のケント州、石灰質のサセックス州やハンプシャー州などから良質な葡萄が生産されます(※2)が、その法的な産地呼称はまだありません。要するに最後のワインは「イギリス」としか答えようがなかった訳です。兎角自信家は細部まで正確に当てたがるもの。もしかするとS男は英国産の泡を飲んだ事が無かったのかも知れませんし(何にせよ、彼がこの味を忘れる事は将来決して無いでしょう)、シャンパーニュを判断基準にしたのが災いしたのかも知れませんし、歯痛と12%という低めのアルコール度数(※3)を捉えられなかったのも敗因だったのかも知れませんが、今回はそんな若者に有りがちな自尊心の盲点を巧みに突いた親方の作戦勝ちと愚見する次第であります。

 ※1 次のランクはEUのIGP/PGIに属するリージョナル・ワインで85%以上がイングランドかウェールズ産かつ残りもUK産、最も下のランクはGI無しでUK又はEU産

 ※2 元々石灰質土壌が堆積するシャンパーニュ地方とイギリスとは地続きの大きな陸地で、45万年前に分離したと考えられている。実際、イースト・サセックス州のサウス・ダウンズ国立公園のセヴン・シスターズと呼ばれるチョーク土壌の露頭が在る事はご存知の方もおられよう。今後更に温暖化が進行してシャンパーニュ地方が温暖に為り過ぎれば、同じ石灰質土壌を豊かに持ち、より冷涼であるイギリスがスパークリングワインの銘醸地に為る事は疑いない

 ※3 アルコール規定において、シャンパーニュ地方のAOC法では11%以上(飽く迄私見ですが12%よりもやや12.5%の方が多いようです、知る限りで最高は Didier Chopin の15%)、一方イギリスのワイン法では8.5~15%(実際は12%が多く、知る限りで最低は Sixteen Ridges signature cuvée 2013の10.5%)と、前者より後者の方が低い傾向にある

 さて平成25年11月に厚生労働省健康局生活衛生課調査係が発表した「飲食店営業(すし店)の実態と経営改善の方策」に拠りますと、有限会社や株式会社は扨置きまして、個人経営者の年代の最多は「60~69歳」で全体の39.8%、また個人経営で「後継者あり」は21.8%しかないという事で、高齢化と後任者の問題は寿司業界の悩みの種であります(交代のタイミングは親が67歳前後、子の継承は50歳前後だそうです)。国外で寿司ブームが起こっている一方、国内では多くの鮨屋が後継者の欠如で余儀無く廃業する憂き目を見ているのが現状。寿司には大きな需要がありながら、それを供給する担い手が不足しているのです。2016年10月、G7伊勢志摩サミットでも寿司を握った三重県津市の「東京大寿司」が閉店しました。地元市民から世界の要人まで訪れる名店でさえ、この問題により四十年の歴史に幕を下ろさざるを得なかったのです。無論これは鮨屋のみならず、長年経営を続ける飲食店経営者の多くが直面し得る問題であります。(因みにこのG7での日本ワインの選定には田崎真也氏、大橋健一氏、辰巳琢郎氏等が着任されました。又「すし」の表記には色々在るようだが、一般的に江戸前では「鮨」を当てる。それは魚に何らかの仕事を施すから、詰まり「魚」を「旨く」するという意味からだという。そしてタネと酢飯を握って鮨にする「江戸前」が誕生したのは文政年間〈1818~1830〉とされ、更に小肌や鮪、穴子を定番とする江戸前風は明治初期にはほぼ確立されていたというから、我々が江戸前鮨を頂く時は同時に凡そ二百年の歴史を味わう事にもなるのである)

 ところで何故S男は転職を望んだのでしょう? 親方との内輪うちわ揉めに疲れ果ててしまったのでしょうか。それは当方が関知するところではありません。「長者三代」という言葉があるように、三代目で会社が潰れ易いのは世界中の統計が示すところですが、才能豊かな彼には一級の味わいを提供し、お客さんの舌を満足させ続けて行って頂きたいと、陰ながら応援するしか私に出来る事はありません。また何故りに選ってカレーだったのでしょう? それもまた当方があずかり知る事ではありません。クミンやカルダモン、シナモンと生姜、そしてターメリックに黒胡椒、更に加えて唐辛子、いやいやまだまだコリアンダーだフェヌグリークだのと、〆て三十から四十種もの香辛料をごた混ぜにして作られる、非常に辛くて熱いその刺激で、出来立てのあつものを啜った位で口蓋の皮がベロベロに剝ける程の敏感さを誇る猫舌な私などは、ともすると味覚崩壊を起こし兼ねないカレーなる掛け物に、嘱望しょくぼうの三代目S男のあれ程の嗅覚と味覚を捧げさせるのは惜しいと思うと同時に、この結果は寿司という日本食文化の存続の為、そしてJ太郎が生き甲斐としている週末の愉楽が失われない為にも本当に良かったのだと、感慨深く思う次第であります。

〈追記〉鮨に纏わるお勧めドキュメンタリー映画発見!“Jiro Dreams of Sushi (English Subtitle)”⇒https://youtu.be/Q3Ve7ec1HpY

本日の箴言

 ワイン文化というものは人と人とが知り合う場所であって、戦いを重ねる戦場ではない。

ボルドーの或る葡萄園に刻まれた言葉

休日の一本

Nyetimber

 1988年に伝統的なシャンパーニュ用葡萄品種を植えた、英国スパークリングワインの元祖で最も重要な生産者の一つ。ウェスト・サセックスとハンプシャー産のシャルドネ55~65%、ピノ・ノワール30~40%、ムニエ5~15%、そして20~35%ものレゼルヴ・ワインをブレンドして造られる、残糖8.5~10g/Lのブリュット(辛口)タイプのスパークリングワイン。機会があれば是非シャンパーニュに優るとも劣らぬ風味を味到して頂きたく存じます

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