第三十三瓶 清酒の味わいの展望

 前稿にて清酒の味わいの過去と現在について触れました以上、未来についても考察しなければ、当方は決して三流の域を越える事は無いでしょう。とは言え、コロナウィルスの世界感染はノストラダムスでさえ予知しなかったようでありますから、一介の講師如きに未来の何が分かるでしょう。全く以てこの先の展望について云々うんぬんするなどぶんを超えた試みでおこがましき事はなはだしいですが、先見する巨神プロメテウスの加護を祈りつつ、過去と現在を見据えて未来を見遣ってみたいと思います。

 現在売れ筋なのは、甘味があって適度に酸味のある酒(特に酵母由来の香味の酒)で、ワインにしか合わない料理が今では清酒にも合うという事が増えて来たのは、ひとえに酸味の功績が大きいのであります(※1)。元々酸味と香りに乏しいのが清酒の特徴で、塩味の肴は良いとしても、肉や油の多いこってりした料理に合い難い事が、日本酒がせいぜいアジアの地方酒に留まり、世界進出出来なかった理由と思われます(あのヌルリとした触感も。私的には「ジュレの様な」と好表現を取りますが)。甘味があって適度に酸味のある物に為って初めて普遍的な酒と為り、そしてそれは昨今の 吟醸 酒が良い例で、海外において “SAKE” について良く知らない人でも “Ginjo” という語ぐらいは耳にした事があって、それは何か高級感を伴う印象を受けると聞いた事があります(しかしそれが吟醸酒が上で純米酒が下のランクという誤解を生んでいる)。確かにワインにおいても糖と酸の割合は味のバランスから厳しく注意されており、酸味を伴わない甘味だけの物は決して評価されません。この点を見落とした甘ったるいだけの清酒は初めの一杯は飲めても後が続かない為、酸度の高いワインに不慣れな日本人の舌でも再び味わう気には為らないでしょう。しかし清酒本来の特徴でもある甘味度合いを下げ酸度を上げて行こうとする傾向は、詰まり国際市場に迎合げいごうしてワインに近付けようとする姿勢は、大いに問題視せねばなりますまい。それは日本酒の堕落、いては日本人の堕落というものです。とは言ったものの、熟々つらつらおもんみるに、もしかしたらそれは「清酒はこうあるべきだ」と思い込む唯の保守的な堅物の思考に過ぎないのかも知れません。偉大なシャンパーニュの歴史を見ても、時代の流れに合わせて甘口から辛口へと変遷して来たのです(⇒ヴーヴ・クリコの生涯)。その時代に生きる人々が美味しいと思うように仕上げた伝統的なアルコール飲料、それを造る事もまた一つの避けられぬ奔流と呼ぶべきでありましょう。例を挙げると、スパークリング清酒は三十年前には考えられない代物でありましたが、宝酒造は「みお」を発売し業界一位に為っています(京都府が「乾杯条例」の下に使用しているらしく、その恩恵もあろう)。一方、海外ではピノ・ノワールの果皮を浸漬させたビールが人気を博しているそうです。確かに清酒造りにおいてワインの世界から得られるものは多く、ワインの遣り方に従う現在の傾向から察すると──特に人口減少高齢社会による「大量生産・薄利多売」戦略が通用しなく為る日本では──これからはより付加価値の高い商品の開発・製造、詰まり「プレミアム化」が進み、独自のハウス・スタイルを誇示するクリュッグの様なマルチ・ヴィンテージテロワール の直接的表現であるブルゴーニュ的自営田や単一畑モノポールのアプローチが取られて行くでしょう(其処での山田錦ではない地元品種の自社育成・自社精米は無論、その延長でワイン用 の使用も在り得ます)。また発酵管理や香りの複層性を目的とした複数の酵母のブレンド、ヴィーガン認証(⇒旨味のオレンジワイン)、紫黒米使用によるロゼ製品、勿論貴醸酒や熟成古酒市場の拡大と発泡清酒(→瓶内二次発酵)への応用も考えられます。何よりも個人的に期待している事は、原酒 で14度前後といった、アルコール度数がワイン並みの清酒の台頭です。その理由の一つは、醸造酒は11~14度程度のアルコールで最もバランス良く感じるものだからです。又、ワインから清酒に転向して確かに当方の肝臓は鍛えられましたが、元来当方は量ではなく質で酒を楽しんで来た人間ですので、アルコールに強く為る事に少しも意義を見出していない上、哀しい哉、数多あまたの先達が仰る通り、年齢を重ねると共に体に負担が掛かる飲食物がつらく為りつつあるからです。加えて国際的な低アルコール酒ブームは、当サイト Lower alcohol wines (and spirits) の稿のご好評からも窺えますし、高齢者が増加するに連れ益々日本では健康志向が高まって行くものと容易に予想されます。低アルコール原酒は根本から造りを変えて行かないと出来ない物(※2)と聞いておりますが、造り手の皆様には日本のみならず世界の指向も鑑みて、要求の多い事は百も承知ですが、王道を行き伝統を守りつつ、自分の世界を表現しながらも時代が求める酒を創造し、在らゆるクラシックな芸術にも通じる「作品」を提供して行って頂けると有り難き幸せに存じます。

 ※1 昔の常識では酸味の付いた酒は失敗作(→ の※2参照。しかしながら「概して優等酒の酸量は、多きを常とする」──江田鎌治郎)。一方で、焼酎において使用される白糀はクエン酸を多く生成する為、清酒に適用するとレモン様の爽快な酸味が加わり、味に立体感が出る。これは清酒用の黄糀や酵母では出せない。焼酎糀で酸度の高い清酒を造る試みは昭和中期より行われていたと言うが、最近の代表例は新政酒造の「亜麻猫」で、「通常の日本酒とは似ても似つかぬ、やたら酸っぱい奇妙奇天烈な酒」として市場に毀誉褒貶きよほうへんを巻き起こした(酸味は五味の中でも料理との相性が良いとされるが、鑑評会では鮮烈な酸味は雑味とされ、極めて低く評価される。食事との相性を無視した鑑評会の形は、飽くまで食中酒である清酒にとって何程の意味があろうか)

 ※2 この様に言うのは全く恐れ多い事ですが、当方と同じくこの先低アルコール原酒が主流と為る事を予見する埼玉県川越市「小江戸鏡山酒造」の五十嵐昭洋氏に直接お話を伺う機会が有り(とても気さくでにこやかで、ざっくばらんなお方でした^^)、その製法についてお聞きしたところ、「出来た酒に水を加えるとペラペラに為るので、醪の発酵段階から追い水の量を増やし、酵母の活動力を調整しながら造る遣り方が主流」と仰っておりました。尚「低アル原酒」は搾った儘の濃醇さや爽やかさを残しながら、軽やかな酔い心地を齎してくれます

 成る程、動物分類上ヒト科の定義の一つに「退屈に耐える能力に欠けている事」というのがあるようですが、唯でさえ恵まれた私達であるのに、これ以上の新しい物、美味しい物を求めようとするのは大和魂の腐敗である事は否めません。お金を第一に考えなければ狂っていると思われるこの時代に反旗を翻し、無 濾過 生 原酒の様に「重い」「諄い」と言われようと矢っ張り鹿爪らしく繰り返し言わずにはられません。「日本人は遥か昔から・・・健康でいて、食うに困らぬだけは働けて、人並みの道徳的・美的感覚に恵まれ、それを自然に育めれば、もう十分なのだと心得ていた」と小泉八雲ラフカディオ・ハーンから言われなければ目が覚めないものでもないでしょう。日本酒には日本酒の特徴があるからこそ「日本酒」と呼べる訳で、「ワインの様な日本酒」を飲むくらいなら初めからワインを飲めば済む事です。すると図らずも、改めて「日本酒の特徴とは何か?」という命題が舞い戻って来ます。そして「古来の伝統的な酒造りが民族の酒としての本質を取り戻す為に必要なものは何か?」と、日本酒の特徴を突き詰めて行くと、私は少しも純米酒に郷愁を抱く者ではありませんが、矢張り在来の様に蔵元の哲学を反映する 生一本 という概念が主柱と為って来るのではないでしょうか。明治十七年に商標条令が発令されて各銘柄が整理されて行く中、灘酒が従来の東京一辺倒から脱却してようやく地方販売という新たな市場開拓へ転換し、明治二十年代後半以降に「宮 」として江戸積専用に使い馴らされて来た謳い文句が「灘の生一本」と為って印象を一新し、より広い全国市場に向かって展開して行ったように、歴史とは巡り巡って同様の現象を引き起こすものですから。とは言え、ただ伝統的操作を踏襲するばかりでは──先と矛盾した事を言うようですが──品質の改良、即ち業界の発展は望めないでしょう。乱暴な言い方に為ってしまいますが、この先清酒はワインにおける醸造法を片っ端から試せるだけ試してみた末、結局どれも話題性あるいは一過性の流行を越えて伝統にまで至る事は無く、せいぜいオプション止まりで、消費者にとっては「たまさかに飲んでみようか」又は「一度試してみれば十分」という上っ面な風味から、「これでなければならない」という理由が見出せない以上、家宝伝来の生一本に帰結するものと思うより他無いのだと、此処では申しておるのであります。曾て1980~2000年代にワイン業界を席巻したロバート・パーカー氏の 樽 に頼った「ナパ化」の様な表面的な変化は長続きせず、結局フランスの伝統的な テロワール 思想へと回帰したように、畢竟ひっきょう人間のふとした思い付きのような小賢しい細工なぞ脆く剝がれる鍍金めっきに過ぎないのです。一方、坂口謹一郎博士は「日本酒の特徴は、その季節性にある」と指摘されておられます。確かに清酒は新酒から始まり、春の濁り酒、夏の生酒、秋の冷やおろしと、季節に合わせ一年掛けて出荷するものでした。昔から日本人は季節と寄り添いながら暮らし、酒もその時々で楽しみ方が変わり、季節と酒は切り離せないものでした。「同じ時は二度と無い」と「一瞬を生きる」武士の様に、その季節にしか味わえない酒を慈しんでいました。しかし現在の酒造りはオートメーションを中心とした合理化が進められ、その年の収穫米から年に一度しか生産出来ない非効率な産業から脱却する「四季醸造」が可能には為ったものの、同時にその季節性という肝心な個性も失われてしまったようであります。

 又、日本酒の特徴とは日本人の嗜好に他なりません。さて、此処で満腔の希望を込めて「日本人の好む味の基本は 旨味、即ちアミノ酸である以上、清酒が滅びる事は無い」と言うのは、いささか安直的過ぎるでしょうか?「昆布、鰹、醬油を美味と感じる以上、それに合う清酒の未来を心配する事は無い」と言うのは、些か楽観的過ぎるでしょうか?「清酒は史上最高の質に達し、美味の限りを尽くし、尚その潜在能力は尽きてはいない」と言うのは、些か誇張的過ぎるでしょうか? ──確かに、高齢化のみならず屋内勤務、最近ではコロナ感染予防として外出自粛や自宅待機といった在宅状態が一般化し、人々が嫌でも己れの体力を考えねばならなく為ったこの時代、飲酒量は減少の一途を辿るに決まっています。その一方で、不味い酒を探す方が難しいくらいに酒質は上がり、確かに当たり外れの無い標準化が進んだ嫌いはあるけれども、これほど美酒を身近に飲める日はありませんでした。尤も、清酒が未だ曾て無い程に優れた香味を出しているのは、戦後から昭和四十年頃の、市場拡大に伴い需要が供給を上回ったが故の「造れば売れる」という生産志向の時代はうに終わり、酒類販売の自由化と共にスーパーマーケットによる他の酒類の値引き戦略に巻き込まれ、加えて自分の商売道具である酒造技術を蔵元にさえ教えたがらぬ杜氏(※3)の高齢化により、清酒業界はもう後が無く手を抜けない緊張した状況に直面しているから、詰まり滅びの時を迎えたから、という正反対の見方も出来なくはないでしょう。しかしそんな悲観的な見方は金輪際止めにして、こういう見解は如何でしょうか? 即ち、清酒はワインを大いに脅かし得るのです。それは──高齢化率ダントツの日本では齢を重ねるに連れ日本酒選好度が高まる傾向にある事もありますが──清酒の価格の方がワインに比べて遙かに手頃という所に在ります。例えば、一級プルミエ・クリュのピュリニー・モンラッシェは安くても750mLで一万円はしますが、それと同等の悦楽をもたらしてくれる、兵庫県「龍力」の大吟醸酒(特A地区産山田錦100%:村米制度⇒清酒の味わい方(味わい)の※2)は1.8L五千円で、或いは佐賀県「鍋島」の同じく兵庫県特A地区産山田錦の純米大吟醸酒は1.8L六千円で入手出来ます。これは凡そ1対5の割合で清酒の方にがある計算に為ります。所詮酒は必需品ではなく嗜好品、安くて好みに合えば何処の酒でもお客は買うだろうし、類似する品(※4)なら安い方を支持するもの。そして原料の安さで言えば外米の方に分があります。もしかしたら数世紀後には米の世界的改良が進み、各国で醸造されている SAKE の世界(⇒清酒の国際化の※4)にも現在のワインの様に「新世界」と呼ばれる産地が現れ、日本は「旧世界」として、いつかワインにおけるフランスの様に、SAKE において長い歴史を持つ不動の地位を得る日が来るのかも知れません。(※5)(まあ、その為には先ずどの家庭でも日本食が普通に作られるように為る必要がありましょうがネ。しかし言う迄も無く、ご飯を多食するその儘の本場の日本食の伝播は不可能であり、如何に洋式主食に米が、そして魚介や野菜および豆を使った日本型副食が、大衆の嗜好に合うように結び付くかが問題と為ろう〈例えばカリフォルニアロールの様に〉)

 ※3 従来の杜氏制度は現代風に言うとコンサルタントの様なもので、開示的なワイン業界とは反対に、この守秘的姿勢が業界の発展を遅らせた

 ※4 「類似」という語に関した別の話に為るが、今より凡そ一世紀半程前の或るイギリス人の著書「日本酒雑観」には、南スペイン産白ワインの強い物(シェリーの事であろう)は17世紀初期より Sack と称し(此処でシェイクスピアのsherries-sack礼讃が偲ばれる⇒ワインの欠陥と非欠陥)ライン又は赤ワインと区別していたが、この語源は日本語の酒(Sacki)に由来するのは疑いないとあるという。昭和四十九年九月にはシェリー産地のへレス市で「日本に捧げるシェリー収穫祭」が催されたというが、それは清酒が白ワイン乃至ないしシェリーに酷似した風味という事が、この時既に広く知られていたからであろうと思われる。但し、本来清酒はワインに比べて酸化による成分変化が少ない為、ポートやマデイラ、そしてシェリーの様なタイプの香りは相当な長期熟成を経ないと生まれず、15年でもソトロンというこれらに共通する香り成分は出て来ないと現在では言われている(⇒第三十七瓶 熟成古酒)。すると当時の清酒は矢張り管理の面では万全でなかったからこそ熟成が必要以上に進み(もしくは劣化と言うべきか)、シェリー的アルデヒド臭や産膜酵母臭が出ていたのだと思わざるを得ない

 ※5 ワインで言う「新世界」の国々の様に、歴史が短くとも酒は生まれるかも知れないが、偉大な酒は長い伝統と優れた文化の中でしか育たないであろう。日本酒は日本の文化と土壌の中で洗練されて来たものである。とは言え、法律で雁字搦めのワインにおける旧世界の様に、「日本酒」を名乗る為の制限に縛られた日本での酒造では自由な創造が困難であるのに対し、海外では SAKE に対する添加物の規制はほぼ無い為、日本人が思いも寄らない斬新な酒が生まれるかも知れない(現にホップを使用した SAKE は既に在ると聞く。日本酒の添加物については 生一本 ※3を参照)。実際、国によっては日本酒の捉え方が異なる場合があり、中にはカクテルベースとして使用して風味を増強させ、それが人気と為っている所もあるらしい。海外輸出される食品はその国の嗜好に合うように改良される事は珍しくなく、ワインでさえ同じ銘柄でも国によって味わいを調整するメーカーもあるくらいだから、SAKE もその国の風土に合うように開発されるのも当然である。そして各国各地において独自の発展を遂げた暁には、SAKEにおける「パリ・テイスティング」が再現されるかも知れない

〈参考〉清酒の低価格

 清酒とワインにおける味と価格の関係は全く異なる。ワインは一般的に軽い物ほど安く、重厚な味に為るほど高価に為って行く。一方清酒においては、米を磨くほど味わいは軽く為って行く為、大吟醸酒の方が、華やかな香りの量感は別として、味においては純米酒より軽く為る。詰まり、最も高価な大吟醸が軽くて、吟醸、特別純米、純米と、安価に為るほど味わいに重みが出て、その頂点に純米酒がある。そして本醸造、普通酒と為るに連れまた味わいが軽く為って行く(勿論、大吟醸酒と普通酒の軽さは全くの別物だが。また飲む順序もワインとは逆で高価な物ほど先に為る。詰まり、華やかな香りという事は複雑さが少なく軽いという事ゆえ、綺麗でスマートな吟醸酒から、濃く深みの有る純米酒へと飲み進められる事に為る)。

 扨、庶民が食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲めるように為ったのは日本の食文化史上初めて実現した事態なのであるが、戦後の復興が軌道に乗り始めた昭和25年と現代の食用品の価格を比べると、安く為った或いは変わらない物は卵、バナナ、砂糖で、多少上がったのが清酒である。大工の日当が200円だった当時、自由販売の二級酒が一升瓶一本500円だった。詰まり大工の二日半の日当でやっと一本買えたのである。片や今では大工の日当二日半分を持って酒屋に行ったら、持ち切れない程の清酒を買える事に為る。要するに、昭和30年からの高度経済成長により家計に余裕が出来て以来、勤労者の月給は当時より三十~四十倍近く上がっているのに、清酒は普通酒で1500円程度で三倍しか上がっていない(その理由として考えられるのは、ビールと共に大蔵省の監督下に置かれていた「公定価格」の名残であろうか〈第二次大戦中に制定され様々な生活物資が対象となり、食糧管理制度下にある主食の米麦を原料とする清酒や麦酒もまた政府管理価格に左右されていた〉。戦後、価格統制撤廃の要請があった際、「米の値段が公定されて同一であるのに、それから造られる酒の値段に開きが在るのは不合理であろう」という意見が有力であったというが、特級酒の内でも特別自信のある酒に対して設けられた「青天井価格」措置は、造り手達の良酒生産意欲を促して清酒の酒質向上を齎し、消費者達も清酒に対する信頼を再び取り戻す転機と為った)。一方で原料の米は八倍近く上がっている。これでは造り手が儲かる訳がなく、それでも遣り繰り出来ているのは税金が下がっていたり、アルコール添加などで原価を下げて量を販売しているからである(原酒 の原価は定価の半額位。酒造りの原価の内、米代は四割台〈大手メーカーの場合。下記箴言の神亀酒造では七割近くとの事〉。因みにワインの原価は一般的に、定価1000円の物は200円、1500円なら700円、3000円では2200円と、定価が上がると共に利益が下がる為、バルクワインの儲けがワイナリー維持の為には欠かせない)。

 次に製品の仕様について見てみるが、四合瓶(720mL)(※6)の価格は一升瓶(1800mL)の価格の半分が一般的、詰まり一升瓶は二合分(360mL=20%分)お得という計算になる。ワインのMagnumマグナム(1500mL)ボトルではこうは行かず、一般的に価格はBouteilleブティユ(750mL)の二倍以上に為る(熟成能力の向上がメリットだが)。では何故日本酒は割安に出来るのだろうか? それは長い歴史の中でリサイクルシステムが出来上がっており、一升瓶の回収率は80%、そして再利用率は70%(醤油や酢、ソースや胡麻油の容器にも使用される)と高い為である(四合瓶においては茶瓶以外は基本的にワンウェイ、故に直接印刷するプリント瓶もある。因みに、技術が未熟な頃は割れ易かった為、新品よりも一度使用済みの瓶の方が丈夫という事で、逆に値打ちがあった)。しかし矢張り一升瓶は大き過ぎて扱い辛く、量も多く飲み切るのに日数が必要なため劣化リスクが避けられない事から、今後は、消費者に気軽な気持ちで、色々と試しに飲んで貰う為にも、また海外輸出にも効果的な300mL瓶が重要視されて来るであろう。抑々そもそも清酒が日本で革命を起こしたのも、四斗樽から一升瓶(※7)に変わった事で、それが海外に出て行く時には更に小型化する必要がある。実はこの容量、国税庁の研究で平均的日本人の毎日の適正量が一合七勺と設定され、それを業界が先取りし、従来に無い冷酒系300mL瓶が店頭に並び出したという背景がある。

 ※6 一しゃく=18mL、一ごう=180mL(十勺)、一しょう=1800mL(十合:1.8L)、一=18000mL(十升:18L)、一こく=180000mL(十斗:180L)

 ※7 明治三十四(1901)年に誕生、大正七、八年頃に大阪の徳永ガラスが製造開始、大正十二(1923)年の関東大震災による建築資材の不足から酒樽が製造出来なくなった為に一気に普及した。こうして年に数回のハレの日に泥酔するまで飲む様式から、毎日のケの日に生酔い程度に飲む様式へと移行した

 もしあなたがワイン愛好家で、「日本ワインは高い」として日本文化に貢献しようとしないなら、「日本酒は安い」という事実を以て日本文化に接してみては如何だろうか? 「日本酒は高い」という話はどんな酒と比べているかが問題で、もし安い蒸留酒と比べているなら当然の結果である(連続式蒸留酒は原料を選ばない為、くず米や安い澱粉デンプンを使える)。750mLに対し720mLという僅かな差はあれど同じ1500円であれば、日本酒の方が質が高い物が多い事を知るべきである(尚、清酒においては1.8Lで3000~20000円が高級、1800~2000円が普通であり、720mLで2000~5000円が高級とされる。清酒の価格設定は、その高い商品価値にもかかわらずワイン市場相場の1/3~1/4程度。今後清酒の国際評価が高まるに連れ、値段もどんどん上がって行くだろう)。又もしあなたが「安くて旨い酒」を求めるならば、日本酒を求めるべきである。欧米の基本思想は「売る為に作る」だが、日本のそれは「作る為に売る」だからである。「問題が出れば作り直す」という奉仕サーヴィス精神に欠けた姿勢に相反し、初めから「完璧を目指して作る」という芸術的職人志向こそ日本の真髄だからである。故に、日本酒とは好い意味でワインと異なり、価格が質に比例するとは限らない、飲んでみなければ分からない世界なのである。繰り返すようだが、ワインは価格と品質、詰まり満足度の相関関係が難しいが、日本酒は高価な物ほど満足度が高く為る。その上ワインの様に投機心が必要な程の高額ではなく、適正価格で取り引きされている。日本の勤勉な品質管理と良心的な価格設定の実情は、清酒を飲み付けるほど実感出来る。

〈For non-Japanese people〉 We Japanese have not been likely to seek for own benefit firstly since Edo period. We have been unconsciously influenced by the basic social level policy called ‘士農工商Shi-Nou-Kou-Shou’, which was adopted in Edo period (Tokugawa era, 1603-1867). Shi means bushi or samurai, who was in a high position in society but lacking in money. Nou means peasant and Kou craftsman, who were in a middle position and ordinary, and Shou means merchant, who was the lowest rank but rich in money. It is said that Ieyasu, the first shogun of the Edo shogunate, thought that ‘I have fulfilled unifying the nation, but I don’t know when rebel troops rise up. If people had a lot of money, they would built an army. Meanwhile if people were extremely poor, they would rise in rebellion. So we will be able to govern the nation more easily if we don’t let anyone have money except government. Then we will be able to make the whole nation such a state as “People have their bread and butter in least amounts”, which means they cannot afford more than daily life.’

〈日本人の為に〉上記の身分制度は、一見生まれ出自で子々孫々まで決まってしまう感がするが、意外にも武家身分は株で売買されていた。由緒も金で買えるご時世だったのである。武家は養子相続が許された為、何時しか血縁主義は廃れ、株と為って売買の対象と為った。百姓や町人でも金さえあれば御家人、あわよくば旗本にさえ立身出来た。

 元々、稲作が安定し酒造が国家組織のものと為った奈良時代における「朝廷の酒」は、官職である禁裏きんり造酒司(ぞうしゅし/さけのつかさ/みきのつかさ)における酒造者、即ち神社付属の酒殿において従事する神人じにんが造ったのであり──確かに彼等は一種の技術者あるいは労働者でもあったが──利潤を対象とするものではなかった事も、蔵人達の見解の根底に在るのかも知れない。「ソロバンを考えていたら酒屋商売はできない」とは八海山会長南雲なぐも和雄氏(平成十二年逝去)のお言葉である。しかし「安ければ好い」と言っても、余りに安かったらそれはそれで恥ずかしいのがこの時代である(フランスの高級ホテルが日本酒をレストランで提供するに当たり、「もっと高い日本酒を造るように」と酒蔵に要望した例もある)。結局或る程度の可処分所得を持つ層がアルコール飲料を嗜むのであるから、もしも清酒にこれ以上の安さを求めるのなら、それは恥を知らぬ者のする事である。特に高級酒は芸術品であり(※8)、優れた芸術というものはそれを理解し得る者だけがその価値を知る。故に、高い代価を払わずして優れた酒を味わおうなどという思惑おもわくは尚更下らないのである。

 ※8 彫刻や絵画が視覚の、そして音楽が聴覚の芸術である以上、酒は嗅覚と味覚の芸術であると言わざるを得まい。そもそも清酒を一つの文化もしくは工芸品と捉え、杜氏は、「一人一芸」とか「一杜一酒」と言われるほど独自の作品としての酒を造り上げるという考え方から「酒造作家」と呼ばれたりもする

 一方、酒販側に視点を移すと、ディスカウント店が大方の消費者に指示されているのは、彼等にとって同じ商品なら安く買えるに越した事は無い為であるが、この品質への訴求の無い安売り業態が、品質的に合成清酒とほぼ同じの低価格酒の増加に拍車を掛け、それが品質向上を目指す清酒業界全体の足を引っ張っているのである。価格破壊の業界に為ってしまえば少数のメーカーと流通業者しか生き残れず、清酒の多様性が失われる。ディスカウントされた酒は嗜好品としての価値を失い「安さ」でしか売れなく為り、「美味しさ」が損なわれ得る。この業態を支配するのは資本の論理で、其処には文化の担い手としての意識は更々無く、取り引きの有無を決定するのは一にも二にも利益率、如何に高品質でも前衛的でも利潤を生まなければ歯牙にも掛けられない。其処の人々は「古女房の事は殆ど知らない、知る必要もない」という態度で、「文化は金に為らない」というのが彼等の金言である(※9)。文化論無き流通形態が生産点と消費点を分断し、飲み手の声が実際の酒造りに反映しない状況を深刻化させるのである。しかしながら、アルコール飲料における世界市場はプレミアム化の傾向にあり続けている。それは消費者の趣味が向上している事の証でもある。Premium Sake とは 吟醸 酒などの日本の 地酒 を指す事を見ても分かるように、小規模だからこそ、大手では真似出来ない「造り手の顔が見える手造りの味」というものが実現され、そしてそれに対して代価を払う価値があると知る消費者が、現在の市場を支えているのである。酒のマーケットというのは人間の体なのだから、通り抜けて行く数量には限度がある。それは曾てアダム・スミスが食料消費について「胃の腑の大きさに制限されている」と喝破した如きである。だからこそ、物資が豊富な時代であれば尚更、酒量ではなく酒質の発展がより一層求められて行く。もはや、醸造法を変えずに新製品を求めて、容器の素材や容量の多様化、又は季節限定とか地域限定といった謳い文句を冠した(全くお粗末な修飾語の羅列に至っては閉口するしかない)、消費者を抜きにした生産者志向の、各社似たり寄ったりの表面的な発想は何時迄も通用するものではなかろう。

 ※9 享保四(1719)年当時、商人の必読書とされた西川如見著『町人嚢ちょうにんぶくろ』の文面を引用し、彼等に苦言を呈して置く。「町人つまり商人の常に守るべきは、謙の一字なり。それ商いの道は金銀を以て物を買い取り、利倍をかけて売る事のみにあらず。商いの心は商量と言い、物の多少を積もり量りて用をなし、高利を取る事なく、あるところのものを、なきところのものに換え、天下の物財を通じて国家の用を達するを真の商人と言う。みつるはおごりとなり、傲は万悪の基となる。欲を薄うして、盈る事なからしむ」

 抑々、平成元(1989)年に導入された特定名称酒の目的は、高付加価値化による利益確保であり、その更なる段階としてかどうかは存ぜぬが、平成十八(2006)年に三増酒(→生一本)が廃止された(しかしながら二増酒は引き続き製造されており、その多くは海外への輸出酒と為っている。此処には海外の日本酒市場を乱しているという批判もある)。 優れた技術による付加価値向上は、特に稀少ワインにおいて見られるような、流通段階で高額に為る出来事とは異なり、造り手の利幅が大きく為る。 又、厳選された卸売り業者や専門店に直接納入する事で、流通業者のみならず消費者も高い付加価値を享受する事に繋がる。 一方で、清酒が日本の外に出る際は、細部においては国毎に様々だが、関税、酒税、そして消費税(或いは付加価値税)が共通して発生する事に為り、無論其処に輸送費が加算される為、輸出先での販売価格は原価の凡そ三~五倍と為る(したがって海外において輸入酒は不利な為、大手はアメリカを中心として生産工場を造り、現地の米と水を原料に現地限定銘柄を製造しているのである)。 そう考えれば矢張り日本人は清酒の理に適ったリーズナブルな価格の下、酒税を通して自国を潤しながら、自分も甘露で心を潤わすのが最善と言うべきであろう。

本日の箴言

 個性的である限りは、お互いは競争相手じゃない。個々に生きていける

 小川原良征(神亀酒造七代目蔵元)

記念日の一本

遠藤、生一本、純米酒(長野県産美山錦、精米歩合49%)(アルコール度15%、日本酒度-1、酸度1.4)(遠藤酒造場、長野県須坂市)

 透明感のあるやや淡いイエロー。華やかさと洗練さを備えた高い香り立ちに目醒めるような感覚を覚える。果実香主体の、定価を遙かに超えたプレミアムレンジの純米大 吟醸 香:白桃、赤林檎、シャリシャリとした新鮮な洋梨ラ・フランス(アルプス酵母由来か?)、ライチ、メロン、グレープフルーツ、スウィーティー、水仙や百合の花、石灰と粘土の ミネラル 香、桜の葉、上新粉、水飴、ローズマリー、サワークリーム、杉やカシューナッツ、そしてヴァニラも感じられる

 豊満なアタック、非常に綺麗な甘味から肌理の整った酸が爽やかさを添え、柔らかい 旨味 を伴いながら、山田錦をも思わせる 押し味 とミントの様なスーとした刺激さえ感じる強めの苦味と共に、15%の適度なアルコール度が骨格を構成。飲み込むのが惜しい程の嚙めるような果実感は病み付きに為る(瓶燗火入れ由来か?)

 後ろ髪を引かれるようにゆっくり嫋々と切れて行く縦長の余韻に美山錦らしさが表現されている。より爽やかな酸味のある果実感を楽しむなら瓜実型 グラス 、より豊かな旨味のある果実感を求めるなら瓢箪型グラスで(個人的嗜好は後者)

・30℃:濃くを齎す苦味と 渋み が現れ、喉元を心地良く刺激する

・40℃:苦味が一層増し、ミンティな程の爽快さを生み、ボディがより軽快に感じられる不思議な世界

 燗冷ましも味わいがブレる事無く見事。逆に15℃よりも温度を下げると香りが閉じ籠り、味の膨らみ度合いも下がるので注意。常温保存で四日経ても確りとした味わいを維持。プイィ・フュメやクラウディ・ベイの様なプレミアムレンジのソーヴィニョン・ブランを飲んでいるかの如き体験。一口一口毎に造り手の心意気が心に沁み入る美酒

同酒蔵の活性生酒「渓流どむろく」も美味
長野県:山川系濃醇旨口系(高い山々に囲まれ、冬季の新たな食糧確保が難しかった為、古くから味噌や漬物等の発酵食品・保存食が発達し、それらを用いた濃い料理に合う)。アルプス酵母(カプロン酸エチルによるデリシャスリンゴを思わせる香りが特徴)による華やかな香味の雑味の少ない吟醸酒と、米の旨味を凝縮したような、穏やかな香りで地味ながらも燗で美味い日常酒の宝庫。2003年から県産米で造った純米酒の原産地呼称管理制度を全国で初導入。合わせるべき郷土料理はコチラ⇒http://kyoudo-ryouri.com/area/nagano.html

“第三十三瓶 清酒の味わいの展望” への7件の返信

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