一旦筆を置いた拙ワインブログサイトを再開してから十九箇月弱、これ迄に十一瓶ご提供差し上げて参りましたが、新酒のお味は如何でしょうか? 全体的に 旨味 を凝縮させながらも、所々苦味や 渋み を効かせてありますので、或いは「飲み辛い」と言う方々も居られる事でしょう。しかしその苦味が濃くと共に幾分の爽やかさを与えて複雑さを添え、渋みが奥行きを生み余韻を支えるのです。此処で改めて──双方の価値の比較は扨置き──現時点では入手困難の極みである「十四代」の様に、酒が美味過ぎて料理の入り込む余地が無い、言わば独り善がりな美味しさに為っていない事を願いつつ、筆を進めて参りたく思う次第で御座います。

扨、前稿では「熟成古酒」についてお話し致しました。一年以上貯蔵した「古酒」はその独特な香味が通の人以外には余り好まれず、現代においてはつい最近まで殆ど注目されなかったのですが、それは寧ろ「搾り立て」のフレッシュな香味への強い嗜好が原因とも考えられます。「採れたての野菜が瑞々しく美味しいように、お酒も搾った瞬間が一番美味しい」と考える七賢の様な蔵もあり、それはそれで全く以てご尤もな嗜好であります。又、秋彼岸過ぎから仕込む新酒は年に一度の貴重な味でもあり、『常陸国風土記』の時代でも「あらさかの 神のみ酒を 飲げ飲げと 言いけばかもよ 吾が酔いにけむ」(新しく醸した尊い神の酒を飲め飲めとあなたが言って勧めたからだろうな、私はすっかり酔ってしまったようだ)と男女集って新酒を飲み飲み歌舞に興じた様が歌われております。
ところで『本朝食鑑』に「熟成醪を酒袋に入れて上槽すると、酒が自然に滴り出る。更に圧力を掛け、酒が滴り尽きた後、酒だけを桶に取って滓下げをする。これを新酒と言う」とあるように、曾ては搾り上げた 生 酒を「新酒」と称したようであります。詰まり、厳密に言えば、一度でも火入れをした酒は「新酒」とは言わず、(熟成の進み具合は別として)「熟成酒」と呼ぶのが正しいという事であります(此処で改めて燗と熟成の相関関係が想起されます)。因みに「古酒」も今で言う物とは全く異質の物で、これは新酒一石当たり精白糯米三斗と米糀二斗を仕込み、二十一日間糖化した後に粕を分離した、味醂様の 諸白 であったという事です。そして諸白は酒質劣化防止に火当てが為されましたが、二番火、三番火、四番火とその回数を重ねる程に風味や色調が変化した為、諸白と言えども時と共に「三年酒 下戸のくるしむ 口あたり」(『川柳拾遺』)と為り、よって好酒家は却って、「升飲みの 価は取らぬ 新酒哉」(『蕪村句集』)に見られるような、造り酒屋で新酒の出来を祝い、通りすがりの人々にも徒で升酒を振る舞うといった情景と共に、熟成古酒から諸白新酒へとその賞味の対象を移行して行ったのであります。こうして季節毎に諸白が造られるように為って行ったのですが、それは──最大消費市場であった江戸の人々が、糀香の抜けない荒い味でも兎に角新鮮な新酒を愛飲した事もありましょうが──実際には上方(西国)の酒屋が少しでも桶の回転を早め換金化を急いだという経済事情に拠るようです。とは言え、矢張り「江戸っ子が季節毎に異なる諸白の味を楽しんだ」と想像する方が浪漫を搔き立てるというものです。(※1)
※1 戦国時代末期、奈良興福寺の塔頭多聞院に残された記録に拠ると、当時は初秋から寒を経て翌年春まで酒造していて、江戸時代初期も旧暦八月に造る最初の「新酒」(普通は前年の古米から造られたが、それは、新米では発酵が進み過ぎた為、腐造酒が多く出易かった事が理由)、「間酒」「寒前酒」「寒酒」「春酒」と、真夏を除きほぼ一年中造られていた。一方現在、技術発展のお陰で安定して同じ味の酒を生産出来る四季醸造が始まり季節感が失われてから、寒造り の新酒という伝統は廃れ、春の濁り酒や夏の生酒、そして秋の冷やおろしといった区別は大して意味を持たなくなってしまった
それはそうと、「初物」「走りの物」に価値を見出し、「旬」の味を重んじる日本人の感性はどの様にして養われて来たのでしょう? それを知るには「新酒番船」について知る必要がありましょう。曾て徳川による江戸幕府の参勤交代制度によって全国の大名が江戸に集められた事は日本人が義務教育時代で教わる歴史ですが、これにより江戸人口が急激に膨張し、生活物資の需要を十分に供給する事が出来ず、上方から江戸へ多くの物資を運ぶ必要があった事などは余り教えられていないようです(※2)。そしてその徳川幕府の参勤交代以来、流通や問屋組織が明確に為って行ったのですが、当初の江戸積みは二樽宛駄馬(一樽=四斗)で数十駄ずつ運ばれ、詰まり馬の背に揺られて大井川を渡り、箱根の山を登り下りして江戸に運ばれた訳なのですが、「馬積みでは実に効率が悪い。酒は常に引く手数多、これではとても間に合わん」という事に業者さん達は1630年代の寛永の頃に気付いたようです。そしてこの流通をより円滑にする為に、江戸には十組問屋、大坂には二十四組問屋という廻船問屋組合が生まれ、樽廻船(※3)で何百樽も同時に送るように為ったのでした(千石船で菰被り四斗樽二十四貫〈72L入り約90kg〉が千五百樽は積める)。その内に、双方の間で「番船制度」が行われるように為り、そしてそれには「新綿番船」と「新酒番船」がありました。前者は畿内でその年に初めて産出した木綿を江戸に送る菱垣廻船による、そして後者は上方の新酒を江戸に送る樽廻船による、言わば弁財船(風帆船)の海上レースで、そして一番船、二番船と着順を競った事から「番船」と呼ばれた訳であります(※4)。酒蔵毎に仕立てられた廻船が大坂から同時に出発して江戸を目指す競争は、初物を好む江戸っ子の気性(何でも一番が好み、向こう見ずで負けず嫌い、走り物は見栄を買うようなもの)に適った慣行で、西宮の出帆に際しては囃子太鼓で見送られ、その賑やかさは『菱垣新綿番船川口之図』(下画像)等の浮世絵からも見て分かる通りで、それは蔵米を始め全国の物産が集まり「天下の台所」と称された大坂の賑わいでもありました。そして一番船などは、江戸前の海に見張り番を乗せた何艘もの船が待ち受ける中、到着を祝う幾つもの幟や大漁旗が風に靡く盛んな出迎えの内に、船頭はねじり鉢巻きに赤襦袢一枚で踊りながら乗り込み、祝杯を飲んで金一封に与るという、古き良き時代の年中行事の一つに相応しい情景が広がったとの事であります。この樽廻船で江戸へ運ばれた酒は「下り酒」と呼ばれ、質が高く珍重され大切に扱われましたが、対して質の低い酒は「下らない」と言われ、この用語は現在も日本人の生活の様々な場面において、唾棄するような口調で広く使われているものであります。詰まり、上方からの入津商品「下り物」=「良い物」、そして「下り酒」=「灘の 生一本」という関係が生まれ、それは江戸で消費される酒の七~九割を占めていたようです(※5)。その消費量は多い時で約百万樽と言われ、町人文化の第二次勃興期である文化・文政の頃(19世紀初頭)の推定人口は百万人、詰まり老若男女問わず(※6)、一年一人一樽すなわち一人一日一合少々の量が飲酒されていた計算になります。「イタミノサケ ケサノミタイ」(※7)という回文も作られたほど常飲され、清酒が如何に当時の日常生活に溶け込んでいたかが分かります。京が「着倒れ」、大坂が「食い倒れ」なら、言わば江戸は「飲み倒れ」の町であったのです。
※2 表面的な事実だけで、その背景にまで触れないのが、いつ迄も時代遅れの減点法に拘るこの国の学校教育における一般的特徴である。次の事は既に『清酒の味わい方(外観)』の※4において述べた事だが、筆者の仕事柄、重ねて言う。事前に設定された解答を求める試験システムは、確かに同一で性能の良い商品を大量生産する必要があった高度経済成長期においては良かったが、既に良質な物が有り余るこの時代、教科書通りに作られた同一物に何の価値が在ろうか。「多様性が失われると生命力が落ちる」とされる事から、「生物多様性条約」や「文化多様性条約」というものが国際条約として存在し、自然界や文化界において多様性こそが生存や存続の鍵とされる以上、模範解答以上の解答で満点を越える事が在り得る加点法を組み込んで行かなければ、いつ迄も過去の成功法にしがみ付いた儘では、この国に発展は望めまい。現状維持もまた衰退の切っ掛けである
※3 和船仕立ての帆船で、大坂からの下り荷を扱う船を菱垣廻船(元和五〈1619〉年発足)というが、そこから独立して酒の輸送のみを扱う船の事。菱垣廻船より船倉を深くするなどして、樽の積載を重視した船型(下画像)。発足年は書物によって様々で、享保八(1723)年という物や1730年と記す物もあり、定かではない。明暦四(1658)年が当方が知る情報の内で最古
※4 他説には、兎に角多量な商品を同時に全て運ぶのは無理であった為、船舶の出帆を二回に分け、そして初めに出るのを一番船、次を二番船と称した事が「番船」の名の由来というものもある
※5 江戸では伊丹や池田からの下り酒も好まれたが、中でも灘の酒を最上とした。一方、関東周辺の酒は「地廻り」と呼ばれ、灘五郷の酒に比べて技術が劣る分、足持ち(保存性)も良くない下酒で、味の分かる酒飲みであった江戸の男衆は下り酒、特にその新酒は地廻りの何倍の値がしても飲みたがったという(が勿論彼等は地廻りの酒も飲んだ。関東の「地廻り悪酒」は何処にも下りようがないという事で「下らぬ酒」と言われた。現代人が言う「下らねぇ」とは元々は江戸っ子の言葉である)
※6 享保六(1721)年の人口約五十万人の内訳は、男三十二万人、女十八万人と推定され、江戸は歪な迄の男子多数社会だった。詰まり全人口の凡そ三分の二が単身男性、言い換えると男二人に一人は食事を作ってくれる配偶者がいなかった為、食べ物屋が繫盛した
※7 伊丹の辛口酒は有名で、塩辛い物を好む江戸っ子の嗜好に合った

毎年秋の新綿番船の出航では、緋色の旗や幟、吹き流しを差した伝馬船や屋形船が河を埋め尽くし、浜の一角から大太鼓の音が勇ましく響き渡り、その合図と共に船々の出立を見届けようとする大勢の見物人が集まり大いに賑わった

下り酒は、伊丹の鴻池家が江戸時代初期に、馬背により酒荷を運んだのが始まりとされる。その後、元和五(1619)年に始まった菱垣廻船で下り酒は輸送され、そして寛文年間(1661~1673)に樽廻船が引き継いだ。或る文献には、安永年間(1770年代後半)には樽廻船の総数は百六隻、菱垣廻船は百六十隻と記されている。菱垣廻船は米、木綿や油、酢、醬油等と一緒に酒を混載して運ぶ為、他の荷を待たねばならなかった。そして当時の酒は質の劣化が早かった為、如何に速く輸送するかが問題であった。又、時化等で積み荷に被害が出た時の損害補償制度(共同海損)にも不満があったとされる(※8)。それらを一気に解消したのが酒樽専門の樽廻船。船の大型化(大量運搬と波の荒い熊野灘から遠州灘の難所を乗り切り易い)と共に、速度向上も実現(菱垣廻船だと江戸まで三週間程だったのが、樽廻船では五日程に短縮)。余談だが、菱垣廻船や樽廻船は六、七年で水漏れを直したり、上廻りの補修をして十五年程で乗り納めとし、塩廻船等に売られた(因みに、下り酒の空樽は醤油樽に転用された)。しかし、そんな樽廻船も明治十年を境に蒸気船に取って代わり、軈ては陸上輸送に切り替えられて行った
※8 元来酒は劣化し易い商品で輸送期間が短い事が要望されていたが、菱垣廻船は諸種の商品を胴の間に高く積み上げ、苫囲いを厳重にするので、集荷から積荷、出帆までかなりの長い日数(普通で三十から四十日位)を要した。それに比べ、酒荷のみを下積荷物として積み込む樽廻船は荷嵩が低く、艤装にも余り手間取らなかったため船足がより速かった。又、菱垣廻船で他荷物と同時に積み込む時、酒は水油・砂糖・砥石・蠟・糠・瀬戸物・鉄類等と共に下積荷物で、海難に当たって荷を軽くする為、先ず刎荷(高波に揉まれて沈没しそうな時に船足を軽くし船の安定を図る為に荷物を海中に刎ね捨てる事)に為るのは上積み荷物の繰綿・昆布・染草・煙草・薬種・絵馬・小間物・櫃物・紙類・糸・木綿類等、より嵩高で且つ運賃諸掛かりや高価な物であった。同一の船の海難によって生じる損失は積み合わせた荷主が保障し合った為、下積荷物の主が上積荷物の主の損失を負担しなければならず、酒樽荷主はこの不平等な損害保障制度に不満を持った。こうして、特に享保十五年の大海難を契機として、酒店組は十組問屋の海保保障から脱退し、専用の樽廻船の独立組織化が為された

※9 船の乗員は沖船頭(船主に雇われた船の最高責任者)、表司(航海士)・親仁(水夫長)・知工(事務長)の三役、その下に片表(表司補佐)、碇捌(碇操作)、楫子(舵取り)。更に下って追廻し(雑事係)、そして最下は炊(炊事係や留守番)
此処で物流の恩恵をこよなく享受する現代人としては、「クール便でお願いします」と贅沢な注文をしたくなるところです。しかしそこはワインとは造りが異なる日本酒の底力。多少なりとも劣化はしたかも分かりませんが、杉樽の様な不完全な容器にもかかわらず、高濃度のアルコール(→並行複式発酵)のお陰で、大坂から江戸への長道でも腐らせずに送り届ける事が出来たのです。そしてこの流通過程における僥倖を忘れてはなりません。四斗樽の酒は船に揺られて味が悪く為るどころか、「船中で もめばやわらぐ 男山」と川柳にもあるように、樽 の中で揺られて味が円やかに為り、更に杉の香油が程良く溶け込んで独特の香りも付いたのです。そして江戸っ子はこの杉樽特有の香味を大いに好んで楽しんだようであります。そうしてそこから、その特徴を付与する為だけに、池田や伊丹の酒樽を船に積んで富士山の見える所まで来たらUターンして持って帰る「富士見酒」とか「江戸戻り」とか呼ばれた非常に高価な酒も現れたという次第です。この出来事は、共に同じ時代、奇しくも帆船時代の17世紀、マデイラにおける、「船に積み込まれて赤道を越えたワインが得も言われぬ風味だった」と態々船積みして長い航路を辿らせたという歴史的背景を想い起こさせます。

The heating by the sun and the rocking motion of the sea were the two principle theories to improve the quality of the wine. Indeed it was discovered that the gentle heating in the sun gave Madeira wine its wonderful flavours, not the agitation of the vessels at the sea.
これで日本人の新しい物好きの理由の一端が垣間見えましたでしょうか。何故日本人(特に江戸人ならぬ東京人)が、時差の関係から諸各国に先んじて解禁されるというだけで、ボージョレ・ヌーヴォーなる安酒を空輸して高価にする無理押しワインに大騒ぎするのか、これでご理解頂けましたでしょうか。此処で当方の今迄の文筆活動を通して知見めいた事を申しますと、定期的な伊勢神宮の式年遷宮(※10)や出雲大社の大遷宮に見られるように、抑々汚穢を忌み厭い、清浄を愛で好むのは日本の神々が誇示する特性。詰まり、神道において老朽化は神々の生命力を衰退させる「穢れ」であり、「常若」で在る事が絶えず浄化された新しい力の源であるという事です。したがって、そういった神々の再生力の恩恵を有り難く授かる日本人が、生まれ立ての清らかなものに価値を見出したり、少しく時が過ぎて古く為れば安く為るにもかかわらず、いの一番に高価な旬の物を楽しもうとしたりする精神は、実は誠に神々しいのであります。
※10 内宮外宮の正宮を始め在らゆる社殿が新造され、殿内の神宝や装束も新調され、宇治橋も造り替えられる、「皇家第一の重事」たる日本最大にして最高の祭事。この祭りを通し、素木造りの建築や伝統工芸の精巧な技術が永遠に引き継がれて行く。二十年に一度生まれ変わるという発想はどの国にも見られない事だという。境内の案内曰く「古代より常にみずみずしく、国も人も若返り、栄えゆくように」。全てを新しくする事で、神と人と国の永生を希求した御先祖達の心が魂に沁みる。古式古例の儘に、変わり行く時代の中でも変わらぬ思いで祀る事、それが神事である

※9 「杉の葉を束ねて球状に刈り込んだ物。酒林が一般の名だが、『杉の丸』『杉林』『酒葉』『酒箒』『しるしの杉玉』『酒望子』など地方によって呼び名が変わる。新酒を知らせる幟の代わりとして、即ち『搾りを始めました』の意味で酒屋の看板に使われる。抑々杉は大物主を主祭神、大己貴と小彦名を配神とする三輪神社の神木である。『酒祭り』の前日にその葉で直径一間(約一・八m)の大杉丸を作り、祭りが終わると巫女達が全国の酒蔵六百軒に配った。尚その『酒祭り』では杉玉が拝殿にぶらぶら下げられる」──拙著『古事記 改 国譲り』(註一〇四)より
さてさて、日本の気候風土の下、日本を代表する産物たる米と水を使い、日本人の忍耐強さ・丁寧さ・繊細さを象徴した「日本民族の叡智の結晶」「日本人が懸ける情熱の証」、即ち「日本の粋」が詰まった清酒という果てしない大海に乗り出して進んで参りましたこのサイト、これより何処に向かって行くのでありましょうか? 順風満帆、或いは嵐で遭難。果たしてこの細やかな小舟は、安らかに旅人を迎え入れる、遙かなる岸辺へと辿り着けるのでありましょうか・・・
本日の箴言
新米の その一粒の 力かな
虚子
平日の一本
達磨正宗、五段仕込み限定純米酒(岐阜県産日本晴70%〈掛米、精米歩合75%〉、同県産五百万石30%〈麴米、精米歩合70%〉、日本酒度-25、酸度3.0、アルコール度16%、生 酒)(令和四年三月十四日しぼり、製造年月令和4年4月→令和四年六月四日試飲)(白木恒助商店、岐阜県岐阜市)
ベージュを帯びたイエローの外観で、重厚な香り立ち:洋梨のコンポート、蒸米、ドライバナナ、穀物の皮、落花生、きな粉の香りが深みを印象付ける。又、べっ甲飴、百合、大根、カスタードクリーム、ショートブレッド、蜂蜜、檜、胡麻、味噌、蕎麦茶など、複層的な香りの要素が感じられる
力強いアタック。ややべとつく甘さは四段を打った事に由来するのか。しかし濃密な甘味の中にも芯の有る酸が味わいの中心に一貫し、風味を引き締めて調和する。ビリビリとした刺激のあるアルコール度に支えられた、とろみの有るテクスチャーのフルボディに 原酒 らしさが表れている。余韻は縦長に、フレッシュさを伴いスッと消えて行く
35℃:好い意味で穀物の殻の様な香ばしさと薄口醤油のフレーヴァー。甘味と旨味がより凝縮され、数年熟成させたような印象に変わる。マデイラにも似た甘・酸のある風味で、食後に燗につけてちびちび味わいたい



日本ソムリエ協会認定 ワインエキスパート、SAKE DIPLOMA
日本ソムリエ協会 ワイン検定 講師
WINE & SPIRIT EDUCATION TRUST 認定 Level 3
平成25年度 一般社団法人松阪市観光協会「古事記感想文」優秀賞
Songes de Vignes(ソーンジュ ドゥ ヴィーニュ)とはDreams of Vines「葡萄樹の夢」 の意
-葡萄の樹々は、己が果実が如何なるワインに為って欲しいと夢見るのか