生酛

 仕込み初期に蒸米、、糀を擦り潰し、5~9℃の低温下で自然に乳酸菌を成育させ、それにより雑菌の汚染を防いで酵母を培養する方法。言わば自然の生態系を利用した、酒造における酵母の伝統的純粋培養技術で、江戸期には「寒酛」、明治期には「普通酛」(この表記から、この酛造りが次第に「普通」でなくなって行った事が分かる)と称されていた。中性の状態から酒母の育成が始まり、酸性(菌の繁殖を抑える)から始まる 速醸酛 よりも様々な微生物が関わる為、より高度な技術と労力が要求されるが(一歩間違えれば蔵内にがらの悪い野生酵母が増殖し、多酸醪や最悪の場合腐造という事態すら起こり得る)、厳しい環境で鍛錬され修羅場をくぐり抜けて来た(速醸酛に比べて三分の一から四分の一の酵母数に過ぎないという)、高温及び高アルコール耐性を持つ強健精鋭の酵母が育つため発酵も盛んになり、且つその発酵は純度が高く健全ゆえ(管理者は此処に誇り高き古代スパルタ精神を感じてしまうのである)、甘味と酸味が調和してカルピスの様な爽快な旨味がありながらも濃く深い味わいを生み、肌理の細かさと大古酒に為っても腰が崩れない力強さを併せ持つ(決して酸化のニュアンスが出て苦くえぐくゴワゴワした、野生酵母と乳酸菌に侵された多酸醪を搾ったとしか思えない味が生酛系の特徴ではない。同じシャープな酸でも真っ当な発酵酸は綺麗な 旨味 を感じるが、それは蒸米の蛋白質が良く分解してアミノ酸が速醸酛の2~3倍と多くなるからで、養殖と天然の違いに似て奥に有る旨味が違い、味に立体感や奥行きが有る)。現在のシェアは約1%。手順は、

 ①「半切り」という桶に蒸米と糀を入れて混ぜ、更に水を混ぜ合わせる「酛立て(仕込み)」

 ② 数時間で蒸米と糀は吸水して膨張、数時間毎に混ぜ、半日後に数名で一組を作り櫂で半切り桶の中身を磨り潰す「酛摺り(山卸)」を行う(これにより米が溶け易く為るので発酵時間が短縮される。一方山廃は中々溶けないため時間を要する)。これを3時間毎に12~15分ほど一番摺り、二番摺りと行い、三番摺りは5~7分行い、糀の酵素作用を促進させる

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高精白米は潰れ易く、無闇に摺ると糊味のりあじ(ミルク臭)の原因に為るため、その加減が杜氏の腕の見せ所なのだとか。また電気ドリルで搔き回す方法もあるが、人手でゆっくり摺るのとは似て非なるものという

 ③ 半切り桶2枚を1枚に合わせる「折り込み」を行い、時々撹拌しながら1日毎に半切り桶を合わせて行く

 ④ 最後に全てを酒母タンクに入れる「酛寄せ」

 ⑤ 3日ほど5~6℃の低温下で撹拌し蒸米の溶解を進める「打瀬うたせ」を行い、蒸米の糀による糖化に徹する。この間、硝酸還元菌が硝酸塩を分解し亜硝酸(※1)を生成、野生酵母の増殖を抑える

 ※1 西洋の醸造の本を見ると、亜硝酸は言う迄も無く、硝酸塩なぞを含む水は不良水であり、醸造用水としては最も不適当と書かれている。しかし⓻で述べるように、仕込み過程でそれらは乳酸菌や酵母に喰われて消え去ってしまうというから実に具合い良く出来ている。尚、酒造において亜硝酸は早湧き(乳酸が十分に生成される前に酵母が増殖を始めてしまう事を言い、その結果発酵が進み過ぎて糖化とのバランスが取れなくなる)防止作用として働く

 ⑥ 打瀬後、熱湯を入れた樽を数時間タンクに入れては出す「暖気だき入れ」を行い、一日1℃上げて行き糖化を進め、糀や器具などに付着している乳酸菌の活動を促し、乳酸を生成させる(もしくは培養乳酸菌を添加する。言う迄も無い事だが、元来生酛に使う乳酸菌は蔵付きの自然に生きているものの為、蔵によって酒に個性があった)

 ⑦ 仕込みから一週間後には亜硝酸と乳酸が共存し、不要な産膜酵母や野生酵母は死滅。また亜硝酸に強い乳酸菌が生成する乳酸により硝酸還元菌も次第に死滅。更に酸に弱い乳酸菌も己の乳酸によって減少。糖分やアミノ酸も蓄積され、酵母の増殖に適切な環境が整う(蔵付き酵母で仕込むのが本来の姿ではあるが、優良な性質の酵母が棲み付いている可能性は低い為、きょうかい6号か7号を用いるのが好ましいとされた)

 ⑧ その後、生存していた乳酸菌は酵母が生成するアルコ―ルによって死滅。結果、多くの乳酸と酵母だけが存在する酒母となる(※2)

 ⑨ それから1,2週間、酒母中の後発酵でより発酵力の強い酵母にする為「枯らし期間」を作り、完成

 ※2 大気の中に充満している微生物の種類は、恐らく細菌バクテリアが数万種、酵母が数千種、そしてかびに至っては数万種を下らないだろうと言われている。これ程迄に多様な微生物が空気、水、土埃に満ちていて、例えばどんなに綺麗な水でも1gに数千も存在するのだから、水道水では万や億の単位で数えねばならないという。土などはその重さの1割近くが菌で占められている事さえあるのだとか。そんな中で、開放式の桶やタンク、微生物がうごめく水や櫂などの道具を以て造られる酛が、米を酒にするのに不可欠な清酒酵母という単一種だけしか含まなくなるとしたら、これこそ摩訶不思議な神業と言わねばなるまい。そして実際に酛の一滴を顕微鏡で見てみると、全視野は酵母で充ち満ちて他の雑菌などは影も見せないとの事。この雑菌のうようよしている世界で清酒酵母だけを純粋に生やすという奇跡、我々の祖先が編み出した謎めいた魔術、それを私達は次の画像の内に見ないだろうか?

酛摺り(山卸)kennan-syuhan.co.jp
先ずは速醸酛を習得した上で考えるべき製法で、決して付け焼き刃は通用せず、並外れた心臓と辛抱と勘に加え、一つの文化を損得抜きで引き継ぐ精神力が必要と言う。余談だが、互いのかいつからないように摺るのが難しく、昔は櫂入れの本数を数える時計代わりに唄を歌ってタイミングを合わせていた
(参考動画→大和蔵酒造、酛摺り唄、字幕付きhttps://www.youtube.com/watch?v=K-dWaFBIVCE)(3:35)
昔からの仕来たりで酒造では各工程で唄があり(洗い場唄、米研ぎ唄、酛摺り唄、仕込み唄、三番櫂の唄、仕舞い唄)殆どは農作業歌や山歌を原曲にしており、長く短調な作業を続ける蔵人の眠気を覚まし元気付けるのは勿論、数を数えるもの(数番唄)、作業時間を決めるもの、作業速度を調節するもの、桶の中に入っている事を知らせる危険防止(桶洗い唄)といった意味があり、蔵人にとって必修課題だった。酒造り唄の要所や締めは副リーダーであるかしらが音頭を取ったという

 尚、生酛造りに純米が多いのは、腐造という危険を負いながらも、個性的で質の高い酒質を目指して選択する製法なのに、折角苦労して完成させた醪に醸造アルコールを添加したのではその個性を薄めるだけだからという

・山廃酛(山卸廃止酛の略):生酛仕込みから山卸(精米歩合を高める為、山になった蒸米を櫂で、或いは足で踏んで潰す/卸す、眠くて寒い深夜の重労働)を廃止し、蒸米と水糀を混ぜて酛を造る方法。精米機で精白率を上げる事が出来るように為り、糀の酵素が十分に白米に吸収されるため蒸米を潰す必要が無くなり、「櫂で潰すな麴で溶かせ」と言われるように為って山卸廃止に至った。詰まり酛を摺るという行為の有無が異なるのみで、後は限り無く生酛に近い製法(※3)。山卸を行った酒母と成分の違いが見られなかった事から1909年に実用化(酒母のアミノ酸が多く、濃醇酒が出来るというのが現在の一般的見解)。現在のシェアは約9%

 ※3 但し、酛立て時の品温は7~9℃と生酛と比べて高めで、暖気の温度や操作が異なる為、心得の無い者が行うと糊味ミルク臭だらけの酒と為り果てるという。酒造りの要の一つは温度管理で、僅か1℃、場合によっては0.5℃の差でさえ大きな影響を及ぼし得る。人間でさえ体温が2℃上がれば体の調子が悪く為り、3℃も上がれば一大事。そう考えれば、体が極小の微生物がそうだとしても不思議がる事もなかろう。又、生酛は山廃よりも水の使用量が少ないため雑菌が入りにくいという

〈追記〉曾ては山卸の前の段階で、足で踏んで置けばその後の作業が進め易いという事から、若い女性による「荒踏み」があった。これはワイン醸造過程における、葡萄の足踏み圧搾を想起させる

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