寒造り

 秋に収穫された新米を使い、寒の入りから翌春に掛けて行う、詰まり小寒(一月五日)から大寒の終わり(二月三日)の、一年で一番気温が低く、水や空気が清浄で酒造に最適な期間に行う江戸中期に完成された酒造りの事で、現在も殆どの蔵が基本的には寒造りを行っている。(酒造は古く「待酒」の様に時を定めず行われていて、造る季節順に区別されていた。即ち、秋彼岸過ぎから仕込む「新酒」、「間酒あいしゅ」、初冬に仕込む「寒前酒かんまえしゅ」、厳冬に仕込む「寒酒かんしゅ」、そして春先に仕込む「春酒はるざけ」の五種である)

 並行複式発酵 では夏の暑い時期が仕込みの適期となるが、腐敗菌や酢酸菌も活発に為るため酒が腐敗や酸敗し易く為る。一方、冬期は寒さでそれらは不活発と為るため安全性が高まる。勿論並行複式発酵に時間が掛かる短所もあったが、暖気だき樽を投入する事で解決。江戸幕府などが寒造り集中化政策を実施、夏期の酒造を禁止し腐敗を防いだ(税が取れなくなるからとも思えるが…だって江戸時代には酒価の五割という重税が課せられていたのだからね〈腐造した物は清酒に為らないため酒税も発生しない。これを腐造免税清酒と言う。実際、設備が近代化されていない時代において腐造問題は「税源の枯渇」と言われた〉。それに、造り手としては古米ふるまい(※)を使う夏酒の方が原価では割安の為、この徳川幕府の「寒造之酒」統制が無ければ寒造り一本に踏み切る事は出来なかったという。加えて幕府にとっては一年中造られるよりも実態を把握し易いという利点もあったろう。とは言え、寒造りは農閑期ゆえ水田地帯の農民にとっても、更には冬期の漁獲量が芳しくない漁民にとっても、造酒屋への出稼ぎ奉公は非常に好都合であり、やがて彼等の中から杜氏が誕生した事は幕府も予期しなかった僥倖ぎょうこうであった事も付記して置かねばなるまい)

 ※ 獲れて一年以上経った米、ふるごめ

伝統的な木製暖気樽  kenbishi.co.jp
暖気入れ(60~70℃の湯を入れた、言わば湯たんぽですな)
現在はより管理の楽なアルミニウムやステンレス製も  ranman.co.jp

 以下は発酵学者、坂口謹一郎氏の『日本の酒』より引用

 冬のはじめ、蔵入りした蔵人達の先ず取り掛かる仕事は桶や器具の手入れ、洗いと、麹むろの築造。今では酒造容器はホーロー引きやアルミニウム、ステンレス・スチールになったのでそれ程の苦労もないが、以前は杉の桶だったので、寒風に裸になっての桶洗いは、桶洗いの歌文句にある通り、「可愛いお方の流しの時は、水も湯となれ、風吹くな」というようにつらい仕事だった。

「カッチリカッチンと切り込みましたるは玉のようなるきよめの切火。真正面なる松尾さま、荒神さま、これなる鎮守さま、産土うぶすなの神さま、八百万やおよろずの神々さまもお目覚めあらせ給うてお立会のほど願い奉る。ただいま仕込みましたるは第〇号のもろみ。江戸へ出しては江戸一番、田舎へ出しては田舎一。甘く辛くシリピンの上々酒とならしめたまえ」──『丹波杜氏』祝詞のりと

 寒さ身に染む暁闇の酒蔵の奥から、仕込桶に向って一心に祈りをささげる杜氏の声を聞く時は、誰しも荘厳な気持ちに打たれて思わず襟を正すであろう。まことに酒造りという神秘な世界では、昔から、誠実の精神のこもった、清潔とパンクチュアリティーとが、酒を腐らせずに名酒を生み出す、ただ一つのたよりであった。